こころの中の宝箱

 

朝、1杯のお水と一緒に、大切な本をゆっくりと味わいながら少しづつ読みます。

起きたての生まれたばかりのこころに、ことばが、透き通った水のように染み渡っていきます。

 

雑然とした思考や情報に汚されていない、こころ。

そのこころに ふってきた言葉をノートに綴ります。

言葉とこころがぴったりあってるか確かめながら、こころを見つめます。

 

 

お昼頃になると、日常に追われ、こころはすっかり違う場所になってしまいます。

夜、眠る前にもう一度、掃き清めればいいかと思って、1日を終え、たいていは疲れてそのまま眠ってしまいます。

 

 

ところが、朝、目覚めると、また生まれたての新しいこころがそこにはあります。

こころの汚れを夜の間にきれいに洗い流してくれる「眠り」は、なんてありがたいのだろうと思いながら、

いつものように本を楽しんだあと、文字を書こうとしてノートを開くと、そこには、昨日の朝に書いた言葉が、きのうのこころの模様として記されています。

 

それは、もう今の自分とは少し離れたところにあって、まるで他の人が書いたのではないかと新鮮に感じるほどで、それでも改めて腑に落ちる言葉や大切な言葉もあったりして、不思議な気持ちになります。

 

 

こころは、毎日、生まれ変わっているのだなと思います。

 

 

 

 

ただ、大事なところはおいておきたくて、

小さな箱にしまってこころの奥の奥の方にしまっておきます。

夜の眠りの波にさらわれてしまわないように、重石をつけて岩に隠れるようにそっと置きます。

 

 

 

 

その箱が何かの拍子に開くことがあります。

 

 

そこには、キラキラしたいろんな色をした光の石があって、ふわっと浮かびあがる

喜びに満ちた元気なもの、ワクワクした希望に満ちたもの、小さくてコロンと転がるもの、底の方にはどっしりと優しい色をたたえて鎮座したものもあります。

 

 

中に、悲しみの色をした貝殻も混じっています。

 

よく見ると悲しみの貝殻の中に、小さな涙の形をした真珠がちょこんと座っていて

凛とした光を放っています。

 

 

愛おしいなと思います。

 

 

いつか、人に言われた「悲しみの中にある愛に気づくために生まれてきたんだな」という言葉が蘇ります。

 

 

悲しみも捨ててしまいたくない、自分にとっては大切な宝物なんだなと思います。

 




 

 

昨日は夏至で、今日から少しづつ夜の時間が増えていきます。

そこには、寂しい気持ちが生まれますが、

この寂しさも、いつかこころの宝箱を開けたとき、

宇宙にきらめく星屑のように、美しいメロディを奏でる光の玉に変わっている

かもしれないなと思ったりもします。

 

 

+++ +++ +++

 

 

海のカメラマンが、海のある小さな町へと、昨日、旅立ちました。

海の中のどんな景色をこころに映して持ち帰ってくれるか、とても楽しみです。

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:海のカメラマン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タンポポ

 

 

 

タンポポが大好きです。

小さい頃、お友達と、春の田んぼに一面に咲く蓮華とタンポポの花の真ん中に座って

暗くなるまで花冠を作っているのが至福の時間でした。

 

◎◎◎

これは、余談ですが、小さい頃にすでに「しあわせだな~」という感覚がはっきりとありました。

屋上で洗濯物をお母さんが取り込んでいる時、その横で乾いたシーツやタオルに顔をうずめ、肌に当たるあたたかい感覚と、私が「太陽のにおい」だと勝手に思っていたシーツの乾いた匂いを嗅いでるとき、子どもなのに「ああ、しあわせだな~」としみじみ思ったのをリアルに覚えています。

「蓮華とタンポポのお花畑」、「乾いた洗濯物の太陽の匂い」が今でも私の「幸せ」を象徴するもので、小さい頃の幸せの感覚って生涯、持ち続けるのだなと思います。

なので、もし、これを読んでくださっているお母さまがおられたら、子どもが幸せだなって口に出したり、幸せそうにしているとき、子どもなのに幸せなんてわかるのかしら?とは思わず、その状態をできるだけ持続させてあげてくださればと思います。

◎◎◎


さて、「タンポポ」に話を戻します。「タンポポ」の語源は、そのつぼみが和楽器の鼓(つづみ)に似ていて、鼓が「たん ぽん たん ぽん」という音を出すことから「タンポポ」と名付けられたそうです。

 

実は、このことを、昨日買った絵本作家の片山玲子さんのエッセイ集「惑星」を読んで、はじめて知りました。

 

 

 

歳を重ねても、毎日、多くのことを「はじめて」知ります。

 

私の名前は「知子」なのですが、名前のせいか小さい頃から「知る」ことが好きで、撮影に出かけた場所ではじめて出会った人からはじめて聞く話を嬉々としていつまでも聞き入ってしまいます。

話を聞くのに夢中になりすぎて、横でカメラを回しているカメラマンのことを忘れてしまい、重いカメラを肩に乗せたまま話が終わるまで撮影しなくてはいけないカメラマンをいつも困らせてしまいます。

 

私に限らず、人間は「知る」ことが好きなのだと思います。

「知りたい」欲求が科学や化学や物理、医学、量子学、哲学に至るまであらゆる学問の礎になってきました。

人の飽くなき探究心が人間の進化を促してきたのだと思います。

今でも毎日のように人は検索エンジンで何かを調べ続けています。

 

「知ること」は中毒になると思います。

はじめて何かを知った時の「わ~!」という感動と「へ〜!?」という驚きを求めて人はもっともっと知りたくなるのだと思います。

知った瞬間に「知らないこと」は「知ってること」、そのうちに「当たり前のこと」に変わっていきます。なので、興味はまた新たな知らないことへと向かい、さらに「探究心」の旅は続きます。

 

 

ただ、最近、思う時があります。

「知ること」で、「想像する」楽しさが減っていってるのではないかなと。

 

 

 

 

人は、ため息が出るほど美しい私たちの星を汚すだけ汚し、今度は、違う星へと興味を持ち始めました。今も日々、宇宙へ向けての探索機の開発が行われています。

 

ロケットが打ち上がる瞬間は本当にワクワクするし、宇宙への憧れは小さい頃から人一倍強い方だと自分でも思っています。

 

太陽の光を宇宙から届く贈り物だといつも思っているし、どんな時も、宇宙に浮かんでいる地球という星の上に自分がいるのだということを忘れることはないし、ほかの惑星への思いもつきません。

 

だからと言って、人類が宇宙をくまなく知り尽くすことに躊躇を感じます。

なんか、知ってしまうのはもったいない気がします。

知ってしまうと、何かを壊してしまうような感じがするのです。

 

人は何かを知るために生まれてきたのかもしれません。私たちが日々知ることをどこかにあるスーパーコンピューターがストックしてその知能をどんどん膨らませているという話もどこかで信じています。

 

でも、「知らないこと」「未知なるもの」への憧憬や想像力を失ってしまうほどまでには、大量に知らなくてもいいのかなって思っています。

 

毎日、溢れるほどの情報を知るより、

自分の人生の旅で出会う「わ〜!」「へ~!?」を大切に、知った時の「ワクワク感」を宝物のように愛おしみながら生きていきたいなって思います。

 

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少しだけ季節がずれてしまいましたが、新作「五月のある日の昼下がり」をリリースしました。

 

森のカメラマンが散歩の途中で出会った一瞬の輝きを、撮影して送ってくれた映像がすごく素敵だったので、私の見てみたい(知りたいに繋がりますよね 苦笑)と思ったショットを追加でリクエストして、美しい新屋賀子さんのピアノ曲に合わせて小さな作品にまとめました。

 

その見たかったショットというのは、タンポポの種が飛ぶ瞬間でした。

 


 

 

その種が地面に着地し、芽を出すところも見てみたいと、実は欲求はすでに進化していますが、それは「小さな種からなぜあんなに大木になるのか」の不思議さと共に、私の中の「想像の宝箱」に入れて人生という旅の道連れにしようと思っています。

 

 

6月の作品も楽しみにお待ちください。

 

 

KISANA LINES  映像作家

CATEGORY: お知らせ

くじらのみるゆめ

 

 

「未来に届ける映像図書館」KISANA LINESは今年2020年の5月5日で満7歳を迎えました。

 

「未来に届ける」ことをコンセプトにしたサイトでしたが、その時には、近い将来である7年後の未来がどのようになっているかでさえ(まさに今の状況を)全く想像はしていませんでした。

あまりの変動の速さに、タイムカプセルは1ヶ月どころか、明日に対してでも有効なのだと思う今日この頃です。

 

 

このコロナ騒動の間、何度かブログを書こうとも思いましたが、様々な境遇で様々に今の事態と向き合ってる人々を前にして、言葉がなかなか思うように出てきませんでした。自分の中でも整理がつかなかったからだと思います。

 

 

そんな時、いつも想像するのは、世界中で出会った動物たちのことでした。

 

カナダの北極圏で出会ったシロクマや、アフリカのゾウやサイ、ニュージーランドのアシカやペンギン、そしてKISANA LINESのシンボルにもなっている海の中のクジラたち。

 

彼らは、今、どんな風に、何を感じながら、彼らの世界で暮らしているのだろう。

想像をめぐらしました。

 

 

 

 

彼らにとっては近年、ずっとパンデミックな状況が続いているのだと思います。

 

前にもこのブログで書きましたが、私が見たシロクマは氷の上にはいませんでした。

氷が溶けてしまってないから、草原の上に寝そべっていました。アシカの赤ちゃんを狙う代わりに街のゴミ置き場に食べるものをあさりに来ていました。

 

 

 

 

ゾウやサイも心無いハンターたちに無残に殺され続けていますし、

海の中の生き物は否応なくマイクロプラスチックを食べ続けています。

 

彼らにとって、私たちの空気と同じように生きていくにはなくてはならない海の水が、ウィルスがはびこるように汚染されているのです。

 

それでも、彼らは反乱を起こすこともなく、宇宙からもらった「生命」という奇跡を絶やさないように未来につなぎ続けています。

 

 

 

 

 

 

たくさんのことを想いながら出来上がった、新作「くじらのみるゆめ」。

映像の絵本のような作品です。

 

 

 

 

 

映像の大半は、KISANA LINESの海のカメラマンが長い間、撮り溜めてきた水中映像です。

普段はとても無口で穏やかに行動するカメラマンですが、海に入るやいなや、とても活発に動き回ります。

 

 

 

 

海の生き物たちはそんな彼に自分たちに似た波動を感じるせいか、素の表情を見せてくれ、通常では滅多に撮れない貴重なシーンも映像に収めることができます。

 

 




そして、ミツバチやチョウチョ、巣を作る蜘蛛の目線にまでなりながら、日常の風景をいとおしむように切り取る森のカメラマンの映像。

 

 


 

それに、私自身が世界を旅する中で出会った忘れられない光景を織り交ぜながら、自分がクジラになったつもりで旅のものがたりを綴りました。

 

それは、現実的な旅とは違いますが、自分の過去を憶い出す時間の旅でもあり、見たことのない世界を想像する宇宙の旅でもあり、未来を想う希望の旅でもありました。

 

 






思えば、7年の間に、ベースをニュージーランドに移すなど物理的な環境が変わったこともあり、なかなか新作をアップできませんでした。

違う国で根を張って生きるのは、思っていた以上にハードで、まさに生きていくだけで精一杯な日々。映像制作に向かう余裕は正直ありませんでした。

 

そんな中、現地のフィルム・フェスティバルで賞をいただいたく嬉しいハプニングがありました。未来の子どもたちへ向けて淡々と物語を綴っているようでも、やはり、誰かに観て喜んでもらうのは嬉しいものだと感じました。

 

 

そして、今回、ずっと旅するように暮らして来た自分が、初めて、思った以上に日本に長く立ち止まり、自分にとって本当に大切なものに改めて目を向けました。

 

なかなか新作をアップできないにもかかわらずKISANA LINESを見守ってくださっている方々、今もなお支え続けてくれているスタッフに感謝の気持ちがどんどん溢れて来ました。

 

 

これからは、今まで以上に、KISANA LINESに寄り添って生きていこうと想いを新たにしています。

 

未来へ届ける「眼差し」を映像の物語として紡ぎながら。

 

 

KISANA LINESのものがたり「くうのお絵かき」の主人公 Fuuyanmから素敵な

メッセージが届きました。

 

 

 

 

ー「KISANA LINES」は、そこかしこに遍在する神さまを丁寧につむいでいっているのだなと、みんなの愛の結晶なんだなあと思いましたー

 

 

 

 

 

 

これからも、どうか、よろしくお願いします。

 

KISANA LINES  映像作家

 

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なじょすべ

 

ニュージーランドと日本の間を往復する日々が続いています。

 

 

 

 

そんな中、機内で映画をよく見ます。

ニュージーランド航空のオンデマンドはコメディ、ドラマなどのカテゴリーの上に

新作とトレンディの項目があり、注目作品がピックアップされています。

 

この時期、そのトレンディの中のトップに置かれているのが「チェルノブイリ」。

約1時間のエピソード5話からなるドラマなのですが、まさに5時間もの間、

ノンストップでその映像に釘付けになってしまいました。

 


 

 

33年前に旧ソビエト連邦(現ウクライナ)で起こった原子力発電所の爆発事故を

テーマに、真実をあぶり出すように描かれたドラマ。

 

事故直後の対策の遅れ、事故による影響を最小限に食い止めようと身を呈して働く人々、放射能汚染がまるで見えない暴力のように人々を蝕んでいく様子は、2011年に日本で起こった福島の原発事故を彷彿とさせる内容で、おそらく日本人であれば誰もが身につまされるであろうリアリズムに満ちています。

 

なぜなら、「チェルノブイリ」は33年前に起こったことを忠実に再現した『ドラマ』ですが、日本では今この瞬間にも誰かがあの事故現場で働いてくれていて、だからこそ我々が通常の生活が送れているという『現実』の中に私たちが生きているからです。(もちろん、チェルノブイリも未だに様々な問題が進行形です。)

 


 

 


事故から8年、普段の生活の中で福島の原発事故のことを思い出し、そこで働く人々に思いを寄せる人がどれだけいるでしょう。

 

 

 

今、現実に起こっていることなのに風化させていく。

 

 

 

その寂しさの中で、事故後の福島の様子を写真におさめ、福島の今を詩に綴っている二人がいます。

 

関久雄さん(詩)と 山本宗補さん (写真) 。

 

 

 

 

 

胸を打たれるのは、関さんの詩が誰をも責めていないことです。

 

 

 

ペットボトルの水道水

福島市が売り出した

すると、世間はこう 言うんだ

カルト そのもの もう犯罪

ストロンチウムは 測ったの

プルトニウムは 出てないの

フクシマは 封鎖しろ

 

なじょ すべなあ

 

 

 

「良い」「悪い」で測るには大きすぎるほどの事故。

 

避難する人としない人、福島のものを避ける人と風評被害に苦しむ生産者さん。

 

事故は人々を分断し、そこに争いや憎しみが生まれました。

ネガティブな感情が、分断する壁をどんどん分厚くしていきました。

 

 

 

 

 

 

廃炉作業も進まない中、冷却のために増え続ける汚染水。

 

その汚染水を海に流す計画まで始める狂った行政。(ここ、ニュージーランドでもこの件は大きな話題になっています。人ごとではないのです。海はつながっているのですから。)

 

解決策が見つからない苛立ちから免れようと、事故を過去のものとして見ないようにする人々の心理。

 

 

でも、現実はそこに生々しくあり、今も様々な問題で苦しんでいる人が多くいます。

 

当時の事故に直接、関わりのなかった人々も命がけで事故の処理に当たってくれています。

 

 

 

 

ここにいる私たちには具体的に何もできなくて、途方にくれてしまいます。

 

 

でも、一つだけ、確実にできることがあります。

 

 

それは、『忘れないこと』。

忘れないで、寄り添って、自分のこととして感じること。

避けないで、『見続けること』なのだと思います。

 

 

関さんの詩はこう続きます。

 

 

おめえさん方よ

悩む こころに 沿うてくれ

オレたちに 優しいのは

痛みを 分かつ こころだよ

 

 

 

 

 

 

 

人が素晴らしいなと思うところがあります。

 

それは、

 

喜びは、シェアする(分かつ)ことで、どんどん膨らみ、

悲しみは、シェアする(分かつ)ことで、軽減されること。

 

 

 

 

 

 

人は誰かに悩み事を相談されたとき、

 

「頑張って!」と励ましたり、

解決策を一緒に考えたり、

意見を言ったりしてしまいがちですが、

 

 

 

いちばん、優しいのは、

 

 

聞いてあげること。

 

黙って寄りそうこと。

 

一緒に感じながら、見守ることなのだと思います。

 

 

 

文:KISANA 映像作家

写真:森のカメラマン

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旅する言葉

 

 

 

 

星野道夫さんが大好きで、旅をする時、よく星野さんの本を持ち歩きます。

 

 

 

 

 

一番長く私と一緒に旅をした本は、その名も「旅をする木」。

 

 

 

 

いつもバッグの中に入っている文庫本はページの端が折れ曲がり、

お風呂の中で読んだりするので湿気で表紙はふやけ、本はどんどんボロボロに

なっていきました。

(長い間、私の旅の道連れだった「旅をする木」の文庫本は、人から人へと

今も旅を続けていると思います。)

 

 

 

 

本は時間とともに古くなっていくのですが、

本に綴られている「言葉」は決して古くはなりませんでした。

いつ読んでも新しい発見があり、その時々に悩んでいることに対するヒントが

見つかりました。

 

 

本を開くと「僕はね、」と話す星野さんが今もそこにいて、

数十年前に星野さんが感じたことや思いが、

今を生きる私たちの心にみずみずしく響きわたります。

 

まるで「言葉」自身が生きて変化を続けているようです。

 

 

 

 

まどみちおさん(詩人)、熊田千佳簿さん(絵本画家)、

読んでいる途中で亡くなってしまった天野仁さん(物理学者)。

 

他にも私がその言葉に恋をした作家さんたちの多くは、もうこの世界に形としては

存在しません。

 

でも、本の中の「言葉」は、今もその言葉の向こう側にいる作家さんの感動や驚きや、生の喜びに息づいています。

 



 

 

「言葉」は、過去に生きていた人の「心」を乗せた船。

 

これから先も、時間や場所を超えて、どこまでも旅を続けていきます。

 

 

 

 

 

今、私たちが何気なく話している言葉も、

その言葉を聞いた人の心と身体に響き、未来へと旅をするのだと思うと、

もう少し丁寧に、大切に、

言葉を紡いでいきたいなと思います。

 

 

 

 

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森を見守るマオリのエルダーの物語のepisode.2。

 

おばあさまから小さい頃に聞いたお話を受け継ぎ、今に伝えている

お孫さんが出てきます。

 

目を輝かせながら、おばあさまの言葉を誇らしげに語る青年を見ていると

「言葉」は本当に神聖なものなのだと、改めて感じさせられました。

 

物語の完成まで、今しばらくお待ちください。

 

 

 

旅の途上にて

 

文:KISANA (映像作家)

写真:森のカメラマン・いのちの記録家(垣内未央)・映像図書館司書(Kayo)

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人間のカタチ

 

 

ニュージーランドの先住民マオリの人たちに伝わる「世界のはじまり」というお話があります。

 

 

*** *** ***

 

 

昔々、「空の神様(お父さん)」と「大地の神様(お母さん)」が恋に落ち、抱き合って離れなくなりました。

 

地上からは光が消え、みんな困り果てました。

 

 

 

 

 

そこで、たくさんの神様が集まり、どうしたら空と大地を離すことができるか話し合いました。

 

一番、年下で知恵のない神様が、魚などをつく銛(もり)で、お父さんとお母さんの手を切ってしまおうと提案します。

それを押しとどめた一番年長で知恵のある「森の神様タネマフタ(カウリの木)」が、大地の上に横たわり、足をあげて突っ張り、空を少しづつ持ち上げ、ついに大地と空を引き離します。

 

 

 

 

嘆き悲しんだ空の涙が海になり、

 

 

 

 

大地の涙が川となります。

 

 

 

 

木が横たわった両側には山ができました。

 

 

 

 

タネマフタが空まで突き上げた足は元には戻らず、

今もカウリの木は根っこのような枝が空に広がり、上下が逆さまのように見えます。

 

 

 

 

 

 

*** *** ***

 

 

長いお話なのでかいつまみましたが、ほかの神様として、「風&嵐の神様」や、
「平和&食べ物の神様」なども登場します。

 

 

 

 

 

さて、先のお話の中に出てくる一番年下で乱暴者の神様の名前は
「戦争&△△の神様」だそうですが、△△はなんだかわかりますか?

 

 

私はそれを聞いた時、少し悲しい気持ちになりました。

 

「戦争&ひとの神様」なんだそうです。

 

 

 

確かに、昔から人は戦い続けてきました。

ネアンデルタール人やクロマニヨン人の頃から戦いはありました。
国同士の戦い、会社では出世争い、心の中にも葛藤や戦いはよく起こります。

生まれつき、人は戦わずにはいられない生き物なのでしょうか。

 

「良い」「悪い」を超えて、マオリの伝説は、私たちに深い問いを投げかけます。

 

 

 

そこで、「本来の人間」とはどういう生き物なのかについて考えてみました。

 

大いなる自然の一部である「人間という種」の本来の姿は、一体どんなカタチなのでしょう。

 

「ライオン」は常に本来の「ライオン」のカタチをしています。

 

 

「ペンギン」も本来の「ペンギン」のカタチです。

 

 

 

ライオンは草食動物の命を得て生存するというカタチを保ち続けています。草食動物がかわいそうだからと狩をやめることはなく、お腹がいっぱいなのに欲望だけで狩をすることもありません。

 

ペンギンも、毎日、海に漁に出かけては魚を食べる生活を続けています。いちいち陸に戻ってくるのは面倒だからと海の中に住むことはないですし、

「ペンギン」が「しろくま」になってみたいと真似をしてみることもありません。

(今は「ペンギン」は南半球にしかいないので、北半球にいる「シロクマ」と動物園以外で出会うことはないはずですね。余談ですが、北半球にいた「ペンギン」は人間による大量捕獲で絶滅したそうです。「シロクマ」も人間社会が要因となって引き起こされる急激な気候変動により絶滅が危惧されています。)

 

もちろん、全てのものは変化しています。
ライオンだってペンギンだって、地球の環境の変化に順応しているでしょう。
ただ、彼らは、自然から与えられた「いのち」に忠実に生きていることだけは確かです。

 

全ての生き物は、自然の中の食物連鎖の輪を自ら壊すことはなく、

自然のままの姿で、「いのち」に忠実に生きています。

 

 

 

では、人間はどうでしょう?

 

食物連鎖の外に君臨し、生態系を狂わせ、まさに好き放題、暴れまくってきた人間。

今も、地球の資源を貪り続け、綺麗な水も澄んだ空気も台無しにし、自らの首を絞め続けています。

 

 

 

果たして、自然が自身を破壊するような生き物を自ら生み出したりするでしょうか?

今の人間は、明らかに「本来の人間」から大きくずれています。

 

昔は「本来の人間」だったというつもりはありません。
だって、昔から人は戦争をしてきたのですから。

 

過去に「本来の人間」のカタチが見えないなら、
未来にこそ、「本来の人間」になる可能性があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

それには、まず、「本来の人間」像を見つけることが先決です!

 

地球という星、ひいてはその地球星が浮かぶ宇宙全体の調和に満ちた循環の中にある本来の人間像。

 

 

それが、どんなカタチなのかがわかりさえすれば、それを道しるべにして進めばいいだけです。

 

 

 

 

全ての人が知恵を絞りあって、その道しるべを見つけることができたなら、人は戦わなくてもいい世界に生きることができると思います。

 

未来に光が射すように、「人間のカタチ」を探す旅を続けていこうと思います。

 

 

 

 

*** *** ***

 

 

先住民マオリのエルダーの物語「WAIPOUA FOREST」のepisode.2のタイトルは「タネマフタ〜森の神様〜」です。

 

完成をお楽しみに!

 

2019年が全てのものにとって喜びの多い年になりますように!

 

1年の終わりに、感謝を込めて。

 

 

KISANA LINESスタッフ一同

文:KISANA   写真:森のカメラマン

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3度目の旅

 

 

 

春爛漫。

旅に出たくなる季節ですね。

 

長くテレビの旅番組の制作で世界中を旅してきました。

自分の仕事を人に説明する時に、
「一つの番組につき、一つの国を3度、旅する」
という言い方をよくします。

 

1度目は下見。約2週間から3週間かけて、撮影候補地を旅します。

現地のガイドの方と二人の場合や、一人の時もありますが、
3回の中で一番旅らしい旅です。

 

 

 

続いて、撮影本番。
旅人(俳優、アーティストなど)やカメラクルーを引き連れて、下見と同じコースを撮影する2度目の旅。

そして、帰って編集をするのですが、これが3度目の旅にあたります。

 

それぞれの旅は、同じコースでも得るものや印象が全く異なります。

1度目は何もかもが新鮮で、好奇心の目を光らせながら
インスパイアされるものとの出会いを楽しみます。

2回目は、自分のたどった道をスタッフと巡るガイド役のような立場。

同じものを見ても自分とはまた違う印象を持つ旅人やスタッフ目線を交えながらの旅になります。

そして、日本に戻って3度目の旅。
実は、この3度目の旅が自分にとっては最も味わい深い旅となります。

 

 

 

 

一人でスタジオにこもり、撮影した映像をモニターに映し出しながら編集するのですが、現場では気づかなかった旅人の小さな息づかいや感動する表情を通して見る旅先は、3度目のはずなのにとても新鮮に感じます。

 

同じ景色を見ていたはずのカメラマンが違う部分を切り取っていたり、自分の感じていたのとは違う森や空や海の色が映っていて、はっとすることもあります。

 

 

 

 

そして、取材させて頂いた現地の方の言葉も、実際に会って話していた時には気づかなかった深い思いが隠されていることも多く、まさに気づきの旅となります。

 

 

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さて、今はカナダの先住民の物語を制作しています。

内容は旅ではないですが、編集しているとやはり3度目の旅をしているような気持ちになります。

 

 

 

 

その中である先住民が話してくれた言葉に強く揺さぶられました。

 

 

「昔は、アートが暮らしそのものだった。。。」

 

 

 

 

世界中で起こった悲劇と違わず、カナダの先住民も西欧による植民地政策によって

文化や言葉を奪われました。

言葉を失った先住民は、自分たちが先住民であるという「アイディンティティ」さえも失ってしまいます。

 

そして、自信の喪失や心の傷がトラウマとなって親から子どもへと代々受け継がれ、今も自ら命を絶つ若者が絶えず、悲劇は続いています。

 

 

 

 

物語は、現代を生きる先住民たちが伝統的な「アート」を学ぶことで、再び自分自身を取り戻して行く様子を描いていますが、その中で「アートと生活」の関係について考えさせられます。

 

 

 

 

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私たちの現代社会において、日々の生活の中心になっているのは「仕事」です。
大半の大人はリタイアするまで、「仕事」を通じて社会と交わって生きていきます。
ここでいう「仕事」とは「経済」のための仕事です。

生活のために必要な「お金」を得ることを中心に社会全体が機能し、「仕事」が自分自身のアイディンティティになっている人も多いのではないかと思います。

 

 

先住民はこのような「経済社会」になる前の人間の生き方をまだ保有しています。

かつて彼らは衣食住、すべてを自分たち自身でまかなえたので、「お金」は必要ではありませんでした。

ですから、お金を得るために働くことも、もちろんありませんでした。

 

そんな先住民の生活の中心にあったのは「アート」です。

 

 

 

 

先住民全員が男性も女性も何かを創るアーティストとして生きていました。
女性たちは衣類や敷物などを織ったり、毛皮を縫いあわせて靴を作りました。

 

 

 

 

石でアクセサリーを作る人もいました。
男性は木を使って家、船、生活に必要な箱や皿などを作りました。

 

 

 

 

それらは、各人、家族によってそれぞれ違うモチーフや装飾がほどこされました。
自分たち自身の独自性がこめられたのです。

 

つまり、「アート」こそが彼らの「アインディンティティ」だったのです。

 

 

 

 

そして「アート」は生活に密着しながら、次世代へと受け継がれ「伝統芸術」として昇華されていきました。

 

 

 

 

彼らのアートにはたくさんの生き物が描かれています。
家族のクラン(ルーツ)を現すもので、スピリッツや守り神のような存在です。

お祭りには、それぞれのクランを象ったマスクやマントを装って踊りました。

 

 

 

 

 

 

彼らは書物を残すかわりに、物語や歴史を柱に彫刻し、トーテムポールとして森の中や海岸など神聖な場所に建てました。

すべてのアートは自然にあるものだけで作られ、やがては自然に還っていくものだとされました。

 

 

 

 

先住民にとって、「アート」は、自然への「祈り」でもあったのだと思います。

 

祈るように日々の中で創作され、想いが宿ったアート作品に囲まれた生活。
なんて贅沢なのでしょう。
それが何万年にもわたって綿々と続けられてきたのです。

 

 

 

 

その彼らの生活を壊したのが、現代の合理主義です。
アートは大量につくられる工業製品にとってかわられました。

アートと暮らしが切り離されてしまったのです。

 

 

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われわれの現代社会では、教育も社会のあり方も、
全てが「目的」と「結果」主義です。
「何のために」「何をするか」を常に問われ(自分自身に問い)それに向かって一生懸命、努力をする人生。

何かをなしとげること、お金を稼ぐこと、生産性のあることが正しいとされる世界。「未来」のために「今」をがまんする生活。

 

「アート」でさえ、商業目的に転じていきました。

 

 

 

 

 

もし、人が時代とともに進化しているとしたならば、お金を稼ぐための時間でほとんどが終わってしまうような人生をなぜ今も続けているのでしょう。

なぜ、生産すればするほど豊かな生活から遠ざかり、地球が汚れていくような進化を人は選んだのでしょう。

 

競争するかわりに、生きる喜びを味わうことに多くの時間を費やせるような道を歩めば、私たちが潜在的に持っているはずのたくさんの能力をもっともっと開花することもできるのではないかと思います。

 

それこそが、人としての素敵な進化ですよね。

 

 

 

 

今、一人一人がアーティストに戻る時代が来ていると思います。

モノを得るためのツール「お金」を稼ぐ生活から、ただ純粋な喜びに突き動かされて生きる人生に少しづつシフトしていく。

 

「喜び」から生み出された「アート」は多くの人の心を「感動」で満たします。

こうして「感動」することで生まれるエネルギーが世界中に広がり続けると、

地球はなんて美しい星になることでしょう。。。

 

想像するだけでワクワクします。

 

「地球を感動によるエネルギーで満たすこと」が、
人としての本来の「営み」なのではないかと最近、よく感じます。

 

 

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今年の5月5日、KISANA LINESは5歳になります。

サイトをもう少し見やすくしたり、物語の感想を会員のみなさまに書いていただく

スペースもできます。

 

さらにKISANA LINESの物語を種から育てる苗床のような姉妹サイトも準備中です。

 

そして、ただいま制作中のカナダの先住民の物語も完成間近です。

 

感動を分かち合える物語、是非、楽しみにお待ちください。

 

 

 

 

文:映像作家 Kisana

写真:プロジェクトマネージャー Kayo、デジタル映像作家 Ryo

CATEGORY: お知らせ

Road of the Ring / 循環の道

 

 

ニュージーランドに40日ほど滞在していました。
ニュージーランドは「ロード オブ ザ リング」や「ホビット」などでも有名な映画

製作が盛んな国。

各地で毎年、幾つものフィルムフェスティバルが行われます。

 

 

滞在していた小さな町でも、ショートフィルムの最優秀賞を選ぶフェスティバルが行われました。

映画館の前にはレッドカーペットが敷かれ、参加者全員にシャンパンが振るまわれ まるでアカデミー賞なみの華やぎです。

 

プロの作品が並ぶ中、今回、最優秀に選ばれたのは20歳と18歳の学生カップル。

来年から映画学校に通うオスカーが監督をつとめ、高校を卒業したばかりのスカイラが脚本を担当しました。

実はオスカーは友人夫妻の一人息子でもあり応援していたので、今回の受賞は自分のことのように嬉しく思いました。

 

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さて、その作品の内容ですが、意味深いテーマが3分のショートストリーにシンプルにまとめられていて、

とても感動したのでシェアしたいと思います。

 

 

16歳の少年と10歳の女の子が一緒に道路を歩いています。

すると、道ばたに女性が倒れていて、みんなが棒を持って寄ってたかってその女性をたたいています。道を通る人も誰も止めようとはしません。

それを見た女の子は助けてあげよう!と少年を誘います。少年は無視します。

何度頼んでも聞いてくれない少年と、殴られ続けている女性を交互に見ながら、とうとう女の子は泣き出しました。

 

するとその少年はその女の子に向かって叫びました。「なんで、こんなことぐらいで泣くわけ1?」「たかがポッサムじゃないか!」

すると、その倒れていた女性がオーバーラップでポッサムへと姿を変えます。

 

ポッサム

 

 

ポッサムはカンガルーのようにおなかに袋を持つオーストラリア固有の有袋動物。

 

 

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それが、ニュージーランドに持ち込まれて以来、大繁殖をし、鳥の卵や雛を襲い、

森の植物を食べ尽くし、最近では家の庭まで入って来て果物の木や畑を荒らすので、

ニュージーランド人は捕獲して毛皮にしたり、道路などで見かけるとひき殺す(!)こともいといません。

 

 

さて、物語は続きます。

再び歩き始めた少年と女の子の前に、道に倒れて死んでるおじいさんが現れます。

女の子は再び泣き出して、どこかにお墓を作って埋めてあげましょう!と少年に言います。少年はまたもや機嫌悪そうに女の子を突き放します。

 

「なんでこいつのお墓をつくったりしなきゃいけないんだよ」

「たかがウエカじゃないか!」

すると、おじいさんはウエカに姿を変えます。

 

ウエカとはニュージーランドに固有の飛べない鳥。

 

 

ニュージーランドの鳥の中では珍しく雑食(肉も食べる)です。

絶滅を危惧されていましたが、国をあげての保護により最近では数が増えました。

畑の野菜のみならず、人の家の台所のものまで食べます。

 

さすがに、鳥を愛するニュージーランド人はウエカは殺しはしませんが、時々、車にひかれたウエカを道路で見かけることはあります。

 

 

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そして、最後に、歩いている二人の前で人が車にはねられます。

今度は、少年の方がパニックになり、早く救急車を呼ばなくちゃと!と大慌て。

 

その様子を冷ややかに見ていた女の子が 少年に向かって言います。

 

「何を慌てているの?たかが人間じゃない。。。」

 

 

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もともと植物と鳥だけしかいなかったニュージーランド。

天敵がいないことから、ニュージーランドの木々はゆっくり育ち、夜行性で飛ばないキィウィに代表されるように鳥たちも独自の進化をとげました。

 

 

 

そこに人間によって持ち込まれたネズミやポッサム、ウサギなどの小動物や、建材のために植林された松などの植物。

外来の動植物は、それまで平和にゆっくりと営まれてきた森の生き物の生態系を一気に破壊し、みるみるうちにニュージーランド中に広がりました。

絶滅に瀕するニュージーランドの固有の鳥や植物たち。

 

 

すべての原因を作った人間は、問題解決のために様々な策をうち始めました。

その中にネズミやポッサムのみを殺傷する(と言われる)1080という薬剤があり、

ニュージーランドではヘリコプターで定期的に国立公園などにまかれています。

 

 

1080をめぐってニュージーランドの住民たちは長く争ってきました。

 

一方は、何もしなければ森が丸裸にされ、ニュージーランドにしかいない固有の鳥や植物が絶滅してしまう。1080をまくのは仕方のないことだ。

もう一方は、1080は川の水を汚し、魚や家畜やペットなど他の生き物にも害を与え、自分たちの生活さえおびやかしかねない。何か他の方法で数を減らそう。

 

 

双方がナチュラリストを自称する人々。

どちらが正解と一言では言いがたい難問です。

 

そんな大人たちの論争に一石を投じた、オスカーとスカイラのピュアな感性。

二人の映画は、多くの人たちの心に、まるで水面に広がる波紋のように ある問いかけをなげかけたのです。

 

 

「人は、他の生き物よりそんなに価値がある生き物なの?」

 

 

増えたから薬剤で殺す。いや、他の方法で数を減らそう。

 

どちら側にも、人間が他の生き物の数をコントロールしてもいいというエゴが

見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今回のニュージーランド滞在の一番の目的は、前のブログにも書いた先住民マオリのエルダー、グレイスさんに会うためでした。

 

 

「タネマフタ(森の神様)」とマオリの人々が呼ぶ樹齢3千年とも言われるカウリの木をお世話するのが、グレイスさんの家族代々に伝わるお役目。

 

お世話とは「見守ること」「ただ見続けることです」と話したグレイスさんの言葉が忘れられずに、グレイスさんの物語を映像に撮らせていただけないかお願いに行ったのです。

 

 

 

グレイスさんは今回も大切なことばを静かに話してくれました。

 

 

「ただ、ただ、見続けて、感じるのです。

感じたことは、大地を通して未来に受け継がれていきます。」

 

 

 

 

人は「問題」があれば、それを「解決」するために、常に何か「行動」をおこしてきました。

 

小さい頃から、ゴールを決められそれに向かって努力するように教えられ、良い学校に入るため、良い会社に入るため、仕事では一つのプロジェクトに取り組み、それが完成したらまた次にとりかかる。

 

何か新しいものを生み出すことにとりつかれ、

成果をあげることが美徳とされる社会。

 

 

そのために、森も海も、回りにあるものすべてを利用し続ける人間。

 

 

人が何かを作れば作るほど、目的のために努力すればするほど、

海は汚れ、森は壊されていきました。

 

他の種をコントロールしようとすればするほど、

生態系は乱れ、地球環境はバランスを失いました。

 

 

生命のために一番たいせつな、綺麗な空気や水も、もうあまり残されてはいません。

 

 

 

 

 

人はいったい何をしているのでしょう。

何のために、生きているのでしょう。

 

お金や物や権力を得るために自分の人生のほとんどの時間を費やし、

やがて疲れきって死んでいく。

 

そんな風に生きるために、人は生まれて来るのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

人だからこそできること、自然界における生き物としての人の役割が

もっと他にあるのではないでしょうか?

 

 

行動を起こす前に

まずは、感じること。

 

手を出す代わりに、

優しく見守ること。

 

コントロールするのではなく、

寄り添うこと。

 

 

喜びを他のものたちと分かち合うこと。

 

感動を自然界に循環させていくこと。

 

 

 

そう、自然は搾取するものではなく、循環しあうものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

今、ここで、勇気を出して立ち止まり、何かをするのではなく、

やめる選択をしてみてはどうでしょう。

 

 

新しいものを作ることをやめ、今あるものを大切にする。

 

饒舌にかわって、耳を澄ます。

 

奪うのではなく、シェアする。

 

勝負にこだわらず、助け合う。

 

 

 

すべてのものはただ存在するだけで、完全に調和が保たれていることに気づく。

 

 

 

 

 

こうして、普段の生活の中で「能動」から「受動」に少しづつシフトしていけば、

 

人間は自然の「循環の道」にもう一度戻れると信じます。

 

 

 

マオリのエルダーが伝えたいと切望しているこの願いを未来に届けるために、

来年より撮影をスタートさせます。

 

 

 

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新作のリリースが大変おくれています。

 

 

来年はKISANA LINESがスタートしてから5年という節目の年。

これを機会に、カナダの極北を舞台に5年の歳月をかけて製作してきた長編を

お届けするつもりです。

 

 

楽しみにお待ち頂けたら幸いです。

 

 

 

2018年が美しい調和の年となりますように。

 

 

 

 

 

KISANA LINES スタッフ一同

 

 

文:KISANA 映像作家

写真:森のカメラマン

 

 

 

 

CATEGORY: お知らせ

心のいろ

 

もう長い間、映像制作していますが、

いつも心がけていることは

物語の背景にある目に見えないものを伝えることです。

 

「湿度や温度」、「香り」、「風」、、、

 

たとえば「湿度」は、葉っぱについた雫や、たれこめた雲で表現したり、

「風」なら、木々がさわさわそよぐ様子を撮影するなどして工夫を凝らします。

 

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そんな中、一番大切にしているのが、

具体的に形で現すことができない「心」をいかに映像に宿らせるかということです。

 

同じカメラマンが同じ被写体を「心」を込めて撮った場合と、

「心」を動かさずにビジネスライクに撮った映像では圧倒的に迫力が違います。

 

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これは、お料理などにもあてはまります。

同じ調理人が、同じ素材とレシピで作ったとしても、

「心」を込めた料理ととそうでない場合は「味」に差が出ます。

 

工場で機械的に量産されるセーターと、

お母さんが子どものために「心」を込めて作るセーターでは「暖かみ」が違います。

 

「心を込める」、その「心」の形や色は目に見えないけれど、

物質やものごとに具体的に影響を与えています。

 

つまり、「心」は「物理的に(質量のあるものとして)」存在しているのです。

 

 

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心のこもったお料理の「ウマミ成分」の数値があがるとか、

心を込めて編まれたセーターを着た子どもの体温があがるなど、

具体的な数値で表されないと信用できないと思っているわれわれ現代人ですが、

実は、生まれながらに持っている感度、感覚で、

無意識に心のこもっているものを見分けています。

 

私たちは「見えないもの」を物理的にとらえる能力を日常的に使っているのです。

 

 

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木や草花の「愛」、動物や魚や鳥たちの「愛」、昆虫や微生物の「愛」、

人間の恋人同士や子どもへの「愛」、

 

もし、愛情に色があって見ることができたなら、

さぞかし世界はカラフルだろうなと思います。

 

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今、世の中は、見えるものに価値を置く社会から

見えないものを感じる社会へと大きくシフトしています。

 

これから、ますます人間本来の能力が大きく開花していく予感がして、

わくわくします。

 

KISANA LINESの物語も、見えない「心」や、

未来のこどもたちへの「愛情」をたくさん込めて制作しています。

 

「心」の純度を磨き、さらに輝く物語を未来に届けていきたいと思います。

 

 

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現在、同時進行で制作中の作品のうち

近日リリースするのは「くうのお絵かき」のepisdoe.3です。

 

旅するように全国各地で暮らしながら絵を描き続けるFuuyanm。

 

 

Fuuyanm

 

 

Fuuyanmは、ごはんを食べるように、まわりにあるすべての自然を身体の中にとりこんで

色を紡ぎだしています。

 

 

珊瑚礁

 

 

 

Fuuyanmの絵には、見えないけれど確実にそこに浮遊している「いろ(くう)」が、

まるで、呼吸するように軽やかに息づいています。

 

 

喜びにふるえるように踊っています。

 

 

そんなFuuyanmの中に「いろ(くう)」が芽生えたのは、ある南の島での暮らし。

 

 

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再び訪れた島で、また新しい「いろ」の「いのち」が生まれる物語です。

 

 

美しいものたちの「心のいろ」

が伝わりますように。

 

 

 

文*KISANA LINES映像作家

写真*森のカメラマン

 

CATEGORY: お知らせ

見守る者

 

ニュージーランドに「カウリ」というナンヨウスギ科の巨木がたくさん立つ森があります。

 

その森の中、ひときわ大きな老木「タネマフタ」。

ニュージーランドの先住民マオリの人たちが「森の神様」と呼ぶ木です。

樹齢2000年以上とも言われ、屋久島の縄文杉の姉妹樹にも指定されています。

 

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ある時、「タネマフタ」を代々、見守るマオリのご家族を撮影する機会に恵まれました。

穏やかな笑みを浮かべたエルダー(長老)のグレイスさんが森を案内してくださいます。

 

目の前に現れた「タネマフタ」。

幹の円周は13.8m。高さは51m。自ら枝を落としながらまっすぐに聳え立ち、

幹の一番上で大きく枝を広げています。

 

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枝という枝に、たくさんの種類の植物が着床し、

その中を鳥たちが飛び交い、実をついばんだり、巣を作ったりしています。

そこはまるで、もう一つの森。

 

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グレイスさんは「タネマフタ」が

「森の生命」を守ってくれていると話します。

 

そして、その「タネマフタ」を「見守る」ことが、

グレイスさんの家族に代々受け継がれてきた役目。

 

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ポリネシア語に属するマオリ語はどこか日本語の響きにも似ていて、

人を家に招き入れる時に「ハイレ、マイ」と言ったり、空のことを「アオ」、

食べ物のことを「カイ」と呼ぶなど、親しみを感じます。

 

そんなマオリの人たちが大切にする言葉に「カイティアキ タンガ」があります。

 

「カイティアキ」は「守る者」という意味で、

人も自然の一部として、生まれながらに環境を守る役割があるという

マオリの人たちの理念を現す言葉です。

 

日本風に言うと、「世話役」みたいな意味あいでしょうか。

 

グレイスさんの家族にとっては、「タネマフタ」のお世話が

「カイティアキタンガ」です。

 

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私は、グレイスさんを撮影しながら、「お世話」とは具体的にどうするのですか?

と訪ねました。

たとえば、水をやったり、育てたり、剪定したりするには、木は大きすぎるからです。

 

 

グレイスさんは

 

「見続けることです」

 

と静かに答えました。

 

 

ただ、「見る」ことが大切な「仕事」で、

そのために自分は生まれてきたのだと。

 

「見る」ことは「守る」ことで、

見ていることで、守られるものがあるのだと。

 

 

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「タネマフタ」の上にある森の中を一瞬風が吹き抜けました。

木の葉を揺らす音、小鳥たちが嬉しそうにさえずる声とともに、

 

グレイスさんの言葉は、そこにいるすべてのものに響き、

そして、残されました。

 

 

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地球に生まれた人間の役割はなんだろうと、よく考えます。

 

ミツバチが花の蜜をすうことで、花粉を運ぶように、

鳥たちが実をついばむことで、植物の繁殖を助けるように、

美しい調和が保たれる自然の循環の中で、

人という生き物の本来の働きとはなんなのでしょう。

 

人はいつも何かを作っています。

そして、まじめに作れば作るほど、

一生懸命に働けば働くほど、

 

山は消え、空気も水も汚れていきました。

 

他の生き物も巣をつくったり、食べ物のために罠を作るもの、

捕食するもの、されるものがありますが、

自分たちの環境を壊すような愚かなことはしていません。

 

そう思うと、人の性がほんとうにせつなくなります。

 

 

でも、人には自然を壊すことなくできる役割が一つあるように思います。

 

それが「見守る」ということ。

 

「見る」ことは、その対象物に必ず何かの影響を及ぼします。

 

グレイスさんの家族は「見る」ことで、

「タネマフタ」が心ない人に切られてしまうのを実際に守って来たのです。

 

目に見えないですが、見守るという優しいエネルギーは「タネマフタ」を含む森全体に

何かしら良い循環をもたらしてきたのではないかと思うのです。

 

それこそが、人の持つ素敵な能力なのではないでしょうか。

 

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映像をうつしとり、つむぐのが「カイティアキタンガ」の私たち。

カメラという目で見ることは、とても強い「力」が働きます。

 

「何を見るのか」

「どこを見るのか」

「どう見るのか」

 

カメラで見ることが、

全ての物に「喜び」の「光」をあてるものになりますように。

すべてのものを輝かせますように。

 

そして、それで守られるものを、大切に未来につないでいこうと思います。

 

 

KISANA LINESは今日で4歳になりました。

見守って頂いていることに感謝を込めて。

 

 

文:kisana(映像作家)

写真:森のカメラマン、マークアップエンジニア

 

CATEGORY: お知らせ