こころの中の宝箱

 

朝、1杯のお水と一緒に、大切な本をゆっくりと味わいながら少しづつ読みます。

起きたての生まれたばかりのこころに、ことばが、透き通った水のように染み渡っていきます。

 

雑然とした思考や情報に汚されていない、こころ。

そのこころに ふってきた言葉をノートに綴ります。

言葉とこころがぴったりあってるか確かめながら、こころを見つめます。

 

 

お昼頃になると、日常に追われ、こころはすっかり違う場所になってしまいます。

夜、眠る前にもう一度、掃き清めればいいかと思って、1日を終え、たいていは疲れてそのまま眠ってしまいます。

 

 

ところが、朝、目覚めると、また生まれたての新しいこころがそこにはあります。

こころの汚れを夜の間にきれいに洗い流してくれる「眠り」は、なんてありがたいのだろうと思いながら、

いつものように本を楽しんだあと、文字を書こうとしてノートを開くと、そこには、昨日の朝に書いた言葉が、きのうのこころの模様として記されています。

 

それは、もう今の自分とは少し離れたところにあって、まるで他の人が書いたのではないかと新鮮に感じるほどで、それでも改めて腑に落ちる言葉や大切な言葉もあったりして、不思議な気持ちになります。

 

 

こころは、毎日、生まれ変わっているのだなと思います。

 

 

 

 

ただ、大事なところはおいておきたくて、

小さな箱にしまってこころの奥の奥の方にしまっておきます。

夜の眠りの波にさらわれてしまわないように、重石をつけて岩に隠れるようにそっと置きます。

 

 

 

 

その箱が何かの拍子に開くことがあります。

 

 

そこには、キラキラしたいろんな色をした光の石があって、ふわっと浮かびあがる

喜びに満ちた元気なもの、ワクワクした希望に満ちたもの、小さくてコロンと転がるもの、底の方にはどっしりと優しい色をたたえて鎮座したものもあります。

 

 

中に、悲しみの色をした貝殻も混じっています。

 

よく見ると悲しみの貝殻の中に、小さな涙の形をした真珠がちょこんと座っていて

凛とした光を放っています。

 

 

愛おしいなと思います。

 

 

いつか、人に言われた「悲しみの中にある愛に気づくために生まれてきたんだな」という言葉が蘇ります。

 

 

悲しみも捨ててしまいたくない、自分にとっては大切な宝物なんだなと思います。

 




 

 

昨日は夏至で、今日から少しづつ夜の時間が増えていきます。

そこには、寂しい気持ちが生まれますが、

この寂しさも、いつかこころの宝箱を開けたとき、

宇宙にきらめく星屑のように、美しいメロディを奏でる光の玉に変わっている

かもしれないなと思ったりもします。

 

 

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海のカメラマンが、海のある小さな町へと、昨日、旅立ちました。

海の中のどんな景色をこころに映して持ち帰ってくれるか、とても楽しみです。

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:海のカメラマン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タンポポ

 

 

 

タンポポが大好きです。

小さい頃、お友達と、春の田んぼに一面に咲く蓮華とタンポポの花の真ん中に座って

暗くなるまで花冠を作っているのが至福の時間でした。

 

◎◎◎

これは、余談ですが、小さい頃にすでに「しあわせだな~」という感覚がはっきりとありました。

屋上で洗濯物をお母さんが取り込んでいる時、その横で乾いたシーツやタオルに顔をうずめ、肌に当たるあたたかい感覚と、私が「太陽のにおい」だと勝手に思っていたシーツの乾いた匂いを嗅いでるとき、子どもなのに「ああ、しあわせだな~」としみじみ思ったのをリアルに覚えています。

「蓮華とタンポポのお花畑」、「乾いた洗濯物の太陽の匂い」が今でも私の「幸せ」を象徴するもので、小さい頃の幸せの感覚って生涯、持ち続けるのだなと思います。

なので、もし、これを読んでくださっているお母さまがおられたら、子どもが幸せだなって口に出したり、幸せそうにしているとき、子どもなのに幸せなんてわかるのかしら?とは思わず、その状態をできるだけ持続させてあげてくださればと思います。

◎◎◎


さて、「タンポポ」に話を戻します。「タンポポ」の語源は、そのつぼみが和楽器の鼓(つづみ)に似ていて、鼓が「たん ぽん たん ぽん」という音を出すことから「タンポポ」と名付けられたそうです。

 

実は、このことを、昨日買った絵本作家の片山玲子さんのエッセイ集「惑星」を読んで、はじめて知りました。

 

 

 

歳を重ねても、毎日、多くのことを「はじめて」知ります。

 

私の名前は「知子」なのですが、名前のせいか小さい頃から「知る」ことが好きで、撮影に出かけた場所ではじめて出会った人からはじめて聞く話を嬉々としていつまでも聞き入ってしまいます。

話を聞くのに夢中になりすぎて、横でカメラを回しているカメラマンのことを忘れてしまい、重いカメラを肩に乗せたまま話が終わるまで撮影しなくてはいけないカメラマンをいつも困らせてしまいます。

 

私に限らず、人間は「知る」ことが好きなのだと思います。

「知りたい」欲求が科学や化学や物理、医学、量子学、哲学に至るまであらゆる学問の礎になってきました。

人の飽くなき探究心が人間の進化を促してきたのだと思います。

今でも毎日のように人は検索エンジンで何かを調べ続けています。

 

「知ること」は中毒になると思います。

はじめて何かを知った時の「わ~!」という感動と「へ〜!?」という驚きを求めて人はもっともっと知りたくなるのだと思います。

知った瞬間に「知らないこと」は「知ってること」、そのうちに「当たり前のこと」に変わっていきます。なので、興味はまた新たな知らないことへと向かい、さらに「探究心」の旅は続きます。

 

 

ただ、最近、思う時があります。

「知ること」で、「想像する」楽しさが減っていってるのではないかなと。

 

 

 

 

人は、ため息が出るほど美しい私たちの星を汚すだけ汚し、今度は、違う星へと興味を持ち始めました。今も日々、宇宙へ向けての探索機の開発が行われています。

 

ロケットが打ち上がる瞬間は本当にワクワクするし、宇宙への憧れは小さい頃から人一倍強い方だと自分でも思っています。

 

太陽の光を宇宙から届く贈り物だといつも思っているし、どんな時も、宇宙に浮かんでいる地球という星の上に自分がいるのだということを忘れることはないし、ほかの惑星への思いもつきません。

 

だからと言って、人類が宇宙をくまなく知り尽くすことに躊躇を感じます。

なんか、知ってしまうのはもったいない気がします。

知ってしまうと、何かを壊してしまうような感じがするのです。

 

人は何かを知るために生まれてきたのかもしれません。私たちが日々知ることをどこかにあるスーパーコンピューターがストックしてその知能をどんどん膨らませているという話もどこかで信じています。

 

でも、「知らないこと」「未知なるもの」への憧憬や想像力を失ってしまうほどまでには、大量に知らなくてもいいのかなって思っています。

 

毎日、溢れるほどの情報を知るより、

自分の人生の旅で出会う「わ〜!」「へ~!?」を大切に、知った時の「ワクワク感」を宝物のように愛おしみながら生きていきたいなって思います。

 

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少しだけ季節がずれてしまいましたが、新作「五月のある日の昼下がり」をリリースしました。

 

森のカメラマンが散歩の途中で出会った一瞬の輝きを、撮影して送ってくれた映像がすごく素敵だったので、私の見てみたい(知りたいに繋がりますよね 苦笑)と思ったショットを追加でリクエストして、美しい新屋賀子さんのピアノ曲に合わせて小さな作品にまとめました。

 

その見たかったショットというのは、タンポポの種が飛ぶ瞬間でした。

 


 

 

その種が地面に着地し、芽を出すところも見てみたいと、実は欲求はすでに進化していますが、それは「小さな種からなぜあんなに大木になるのか」の不思議さと共に、私の中の「想像の宝箱」に入れて人生という旅の道連れにしようと思っています。

 

 

6月の作品も楽しみにお待ちください。

 

 

KISANA LINES  映像作家

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