緑 色
皆さんはなぜ、木の葉が、緑色なのかご存知ですか。
「光合成」の仕組みのことではなく、もっと、根源の「色」のお話です。
そうです。葉っぱは「緑色以外」の色を全部、吸収してしまい、
「緑色だけ」を反射するので、私たちは葉っぱが「緑色」に見えるのだそうです。
ということは、本当の葉っぱの色は、
「緑色以外のすべて」ということになりますよね。
海が青いのも、
花が赤いのもすべて同じですね。
そう思うと、表面的に現れているものは、実は本質ではなくて、
ものの本質というのは目では見えないところにあるのかなと思います。
これは、理屈ではわかった気がしても、具体的にはとても深淵な事柄です。
特に私たちのような映像を映すことを仕事としている者にとっては
きわめて切実な問題です。
一生懸命、被写体を表すために撮影しても、私たちには表面的な色信号を
映すことしかできず、永遠に本質を撮ることはできないのですから。
そう思うと、ちょっと切なくなったりもします。
海は実際には何色をしているのでしょう。
自問自答を重ねながらも、映像を映し伝える者は、
様々な角度から対象物をとらえ、光を待ち、
瞬間ごとに少しづつ変化する色を追い、なんとか本質を映し出そうとします。
本質に迫ろうとします。
一瞬、一瞬、違う表情を見せ、毎瞬、変化しているものなのですが、
トータルで見ると一つのもの。
全てであり、一であるもの。
一番、身近なところで言えば、私たちは生まれてから今までずっと
成長したり衰えたり、見かけ上の変化を重ねていますが、
ずっと自分であることに変わりはありません。
私が私以外のものになることはできない。
見かけ上の変化にとらわれず、そのものであり続けるもの。
それが本質です。
その本質を見つめ、 物語として伝えることが、KISANA LINES の宿命だと考えています。
では、その本質は、いったいどうやって表せばいいのでしょう。
たとえば、色や形にとらわれない「香り」や「湿度」で表すことができるかもしれません。
ですが、今のところそれを具体的に映像で映しとることはできません。
ただし、「香り」や「湿度」などを含む本質から伝わる「感覚」を、媒介者を通して、
その「表情」や「言葉」で伝える方法はあるかもしれません。
「アート」も一つの手法だと思います。
本質を表現するのがアートの原点なのですから。
そして、さらに「本質」に近づくためには、こうして様々な手法で伝えられる
「言葉」の行間であったり、「表現」の背景を感じとるための、
受け取り側の「意識」もとても大切なのもだと思えます。
つまり、全ての表現は表現者からの一方通行ではなく、受け取る側の影響が加わりながら、
双方向で一つの表現が成立しているのだと思うのです。
KISANA LINESの物語も、一方通行ではなく
見てくださっている方々の感性というバイブレーションが加わることで、
少しづつ本質に近づきながら、伝わっていけばいいなと願っています。
見えないものの向こう側にある「いのち」をみんなで見つめていければいいなと思います。
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さて、先日、7月7日七夕の日にリリースした「しあわせの発明」episode.4は、前回のepisode.3とともに発明家である藤村靖之さんに、博士の発明の基盤ともなっている
「愛の哲学」を語っていただきました。
博士の言葉を紡いでいて気づいたことがあります。
それは、博士の表現はいつも強制や押しつけ(一方通行)ではなく、提案(双方向)という形をとられているのですね。
だからこそ、受け取り側に参加意識が生まれ、実際に博士の提案を実行に移す人たちが多いのだなと納得させられます。
博士の哲学に、受け取り側の意識を重ねあわせ、みんなが発案者となり、それぞれの中から生まれる「わくわくするアイディア」を、具体的な活動として表現していく。
「わくわく」が「わくわく」を生みだし、果てしない表現がどんどん広がっていくことで、いつか「本質」のしっぽを掴む時が来るかもしれません。
こうして、新しい文明が開かれていくのって、本当に「わくわく」しますね。
KISANA LINES 映像作家