サウダーデ / もののあはれ

 

 

話題になったので

知ってる人もいると思いますが

 

「翻訳できない世界のことば」

 

という本がすごく面白くて

何度も読み返しています。

 

 

 

 

 

アメリカ人のイラストレーターが、

モロッコ、イギリス、スイスなどで

暮らした経験をもとに

 

英語では一言では言い表せない

世界中の言葉を

イラストで説明しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょうど

 

ポルトガル出身の

ジョゼ・サラマーゴ(ノーベル文学賞受賞作家)が

 

晩年に書いた「象の旅」

(ポルトガルからオーストリアまで

歩いて旅をした象の話で史実をもとに書かれたもの。

この作品の執筆中から亡くなるまでのサラマーゴを追った

ドキュメンタリー映画もすごくよかったので、

今度、紹介したいと思います。)

 

を読んでいたら

 

その中に「翻訳できない世界のことば」の中の一つが

出てきました。

 

 

 

 

 

 

 

「SAUDADE サウダーデ」という言葉です。

 

 

音の響きがなんとなく意味を表してるように思うのですが

 

正解を知る前にまずは発音してみてください。

 

 

「SAUDADE サウダーデ」

 

 

どうですか?

 

 

ちょっと物悲しくないですか?

 

 

 

 

 

 

 

意味は、

 

心の中になんとなくずっと持ち続けている

存在しないものへの渇望や、

 

今はなき愛した人やものへの郷愁の想いで、

 

 

単に誰かや何かを惜しむというよりも

もっと強い感情なのだそうです。

 

 

そもそもインドから連れてこられた象と象使いが

かつて味わったことのない

アルプスの雪山の凍えるような寒さの中

歩き続ける「象の旅」にも

 

 

この「サウダーデ」という

どこか諦めにも似た

 

達観したかのような哀感が

織り込められていました。

 

 

 

 

 

 

 

ポルトガル 人のアイデンティティとも言われる「サウダーデ」。

 

自国だけにとどまらず、

ブラジルでは

毎年1月に「サウダーデ」の日というのがあるほどで、

 

 

ポルトガル語の「サウダーデ」という言葉は

植民地となった国々にまで

その言葉があらわす感覚とともに定着しました。

 

 

 

 

 

 

大航海時代には

スペインと世界を2分したと言われるほどの

強国だったポルトガルの人々が

 

 

「サウダーデ」という

ある種満たされない思いを心の中に秘めていたのかと思うと

不思議が気分になります。

 

 

 

 

 

 

もしかしたら、欲望のまま世界中を制覇しても

埋めることができなかった心の飢えのようなものが

この言葉を生み出したのかもしれないですね。

 

 

 

 

 

 

 

日本によく似た感情を表す言葉があるかなと探して

思いついたのが

 

 

「もののあわれ」ということばです。

 

 

 

 

 

 

 

 

平安時代に活躍した作家達に影響を与えた

美的理念や価値観で

 

 

四季に移ろいゆく風情や

男女や親子、友などの間の情愛や離別、

哀惜などによって生じる、

しみじみとした情緒や気分をあらわしています。

 

 

 

特に、紫式部によって書かれた「源氏物語」には

「もののあはれ」という情感が

全編を通じて濃淡豊かに描かれていて

 

物語にそこはかとない香りや艶を与えています。

 

 

「もののあはれ」

 

 

日本人の心象を表す

 

美しい響き

 

 

なくしたくない言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時、頭をよぎったのが

 

 

これらの特別な「感情」や「感覚」は

 

それを表す「言葉」の消滅と共に

 

失われてしまうのか?

 

 

 

という疑問です。

 

 

 

 

 

 

 

「もののあはれ」 という言葉は

今では誰も日常的には使わないので

 

古典や歴史小説などに残ることはあっても

 

 

言葉としては忘れ去られるかもしれません。

 

 

では、その時に

 

 

私たちの中にある

 

「もののあはれ 」を知る情感や感覚も

 

なくなってしまうのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

そして、さらに、違う疑問が湧いてきました。

 

 

「人の情感や感覚は

時とともに変化するのだろうか?」

 

 

 

 

 

 

 

日本では

縄文時代から現代に至るまで

文化、生活様式などの変化とともに

 

言葉も変化してきました。

 

 

 

 

 

 

江戸時代と明治時代、

そして現代とでは

言葉遣いは違いますし

 

ここ数年でも、

どんどん新しい造語が生まれては

消えていってます。

 

 

 

果たして、それに伴い

 

私たちの感情や心の中も

 

変化しているのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚

いわゆる五感と呼ばれる感覚は

縄文時代の人と私たちで違うのでしょうか?

 

 

 

嬉しい、悲しい、愛おしい、寂しい、切ないなどの感情は

どうなんでしょうか?

 

 

時代によって

感じる対象は変化しているとは思いますが、

 

感じ方まで変わっているのでしょうか?

 

 

 

現代の科学では、

 

心が感じていることを

 

 

その時の脳波や、細胞の振動、分泌物の量などで

測る方法はあるかもしれないですが

 

 

 

過去の人については、

 

 

今に伝わる「言葉」の中にこそ

 

その言葉が生まれた頃の感覚が

託されているのではないでしょうか。

 

 

 

環境や気候によって

どんどん

ある部分だけが繊細に細分化したり、

 

逆にシンプルになったり、

 

 

その土地土地で

生まれ、育まれた「感覚」が

 

 

いつしか、

 

 

「翻訳できない世界の言葉」のような

他国の言葉では表せない独自の「言葉」に

なったとしたなら、

 

 

 

 

 

その「言葉」の中に

 

過去の人の「感覚」が

 

息づいていることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言葉」は方舟のようですね。

 

 

 

 

 

 

 

挨拶の時に交わす言葉も

国によって意味あいが違っています。

 

 

フィジーでは道ですれ違う時

 

みんな「ブラ!」と

元気よくてをふって、

 

笑顔で挨拶し合います。

 

 

「ブラ」の意味は

「生命」だそうです。

 

まさに生命力が溢れる挨拶です。

 

 

 

 

 

 

ミクロネシア のマーシャル諸島の

「こんにちは」は

「ヤグエ!」です。

 

 

「ヤグエ」とは

 

「あなたは虹」

 

という意味なんだそうです。

 

 

 

なんて素敵な挨拶なんでしょう。

 

 

 

 

 

 

毎日といっていいほど、

綺麗な「虹」が架かるマーシャルでは

 

「虹」が暮らしとは切り離せない

大切なものなんだなと

 

すごく感動したことを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

「翻訳できない世界のことば」の中には日本語もいくつか書かれていました。

 

 

「木漏れ日」「わびさび」「ぼけっと」の3つです。

 

 

 

 

 

 

 

このうちの「木漏れ日」という言葉の

英訳が難しいことは

 

去年、KISANA LINES 映像図書館に並んだ作品

 

「Theatres in New Zealand」

 

の翻訳を

ニュージーランド人の友人に手伝ってもらってる時に

気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

友人は、さんざん悩んだ結果

 

「木漏れ日」のことを

 

「Spot Lights among trees」

 

と訳しました。

 

 

 

 

 

 

「木漏れ日」を一言で表す言葉がないので

 

4つの言葉を使って説明したのです。

 

 

 

逆にイギリスの言葉で一言で言えるのに

 

日本語ではいくつもの言葉を重ねないと

説明できないものもあります。

 

 

イギリスを構成する4つの国の一つ、ウエールズに

 

 

 

 

 

 

「HIRAETH」(ヒライス)という言葉があります。

 

 

もう帰れない場所に

帰りたいという気持ちを表すそうです。

 

 

世界中にたくさんの植民地を持っていたイギリスの人は

国民を植民地に移住させようとする政府の思惑のもと

故郷を捨てた人も多くいたのでしょう。

 

 

遥か海の向こうの祖国を想って、

この言葉を呟いていたのかもしれないですね。

 

 

ちょっと「サウダーデ」にも似ています。

 

 

 

 

 

今、暮らしているニュージーランドには

世界のあちこちから人々が移住していて

 

オランダ語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、

そして、先住民のマオリ語と太平洋の島々の人たちの言葉、

 

本当に多くの言葉が飛び交っています。

 

 

 

 

 

時々、言葉でわかり会えないもどかしさを感じることはありますが

 

 

同じ風景を見ていても

 

きっと

それぞれ違う出身国の人で感じ方は違うのだろうなと思うと

 

 

一つの空間に世界がいくつもあるみたいで

嬉しくなります。

 

 

 

 

 

 

「翻訳できない世界のことば」の作者である

アメリカ人のエラ・フランシス・サンダースが

 

日本語の「ぼけっと」という言葉の説明の中で

 

 

 

「日本人が

何も考えないでいることに名前をつけるほど

それを大切にしているのが素敵」

 

と書いているように

 

 

 

 

 

 

「言葉」は、その言葉を話す国々の人にとって

生活の中で使う必要性が頻繁にあり、

 

且つ大切にしている

 

感情や感覚、状態についたもの。

 

 

 

 

 

 

 

他の国の言葉を学ぶことは

 

価値観だけでなく

その言葉を話す人の心の風景を見るような

 

 

 

 

 

 

 

ワクワクする、

 

そして、ちょっとドキドキする

 

 

 

 

 

 

 

冒険旅行なんだなと思います。

 

 

 

 

 

 

「サウダーデ」という感覚を味わいに

久しぶりにポルトガルに行ってみたくなりました。

 

 

 

+ + + + + + +

 

 

 

ニュージーランドにて、

 

 

 

 

バイリンガル で、バイカルチャルなヤングカップル

(二人とも、ニュージーランド人&日本人の両親を持つ)と、

 

ニュージーランドを縦断する旅のものがたりの撮影を始めています。

 

 

 

秋ぐらいから

 

 

KISANA LINES映像図書館の作品の仲間入りができそうです。

 

 

 

 

お楽しみに!

 

 

 

文:KISANA LINES  映像作家

 

 

 

CATEGORY: お知らせ

ニュージーランドの怪獣

 

 

 

 

激しい雨が上がりました。

 

 

 

 


 

 

3年ぶりのニュージーランド。

 

何もかもが新鮮です。

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に感動したのは

 

雲の白さ。

 

 

雲ってこんなに白かったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、

 

ドラマチックに変わる

 

空模様。

 

 

 

 

 



 

 

 

晴れていたと思ったら、

 

 

 

 


 

 

 

 

急に雲って雨が降り、

 

その雨にまた光がさして

キラキラひかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4seasons in one day.

 

ニュージーランドでは

よく耳にする言葉。

 

確かに1日に四季があるのを感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水道をひねれば水が出る

日本での生活から急転。

 

 

 

 

 

 

 

 

雨水を大きなタンクに溜めて、

 

その日に使う水を

小さなタンクに移し替えて使う

 

毎日が帰ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

植物たちは、

 

水か光か

一度にどちかしかもらえないと

 

 

前にここに書きましたが

 

 

 

 

 

 

まさに、今、

自分がその状態で暮らしています。

 

 

 

太陽の光で電気を得ている生活なので、

晴れないと困る。

 

 

 

 

 

 

でも、雨が降らないと

タンクの水がなくなる。

 

 

日本にいるより

毎日の天気がとても気になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

3年分、降り積もった

 

ホコリと虫たち😉をはらって

 

 

 

 

 

 

 

 

家中のものを

 

洗って、

 

掃除して、

 

 

再びここで生活をするための準備に

時間がかかります。

 

 

 

 

 

 

外回りがさらに大変。

 

立派なハチの巣があちこちに!!

 

 

 

 

 

 

私の留守を守ってくれてたんだな~と、

 

ブンブン飛び回るハチたちを見ながら

途方に暮れます。

 

 

 

 

 

 

毒性の生き物がいない

ニュージーランドで

 

唯一、怖がられている

ワスプというスズメバチ科のハチ。

 

攻撃性が強いらしいですが、

うちのハチたちは優しいタイプのようで🐝

攻撃はしてきません。

 

 

ただ、朝はハチたちのうなるような音で

目が覚めます😅

 

 

 

 

 

 

 

そして、

ジャングル化している

雑草たち。

 

一括りに雑草というのは

植物に失礼だと

 

常々、思ってはいるものの、

 

 

 

 

 

 

こう大群でわさわさ茂っていると、

 

全部がこっちに向かって攻めてくる

怪獣のように見えます。

 

 

 

 

 

 

特に、ゴースという名前の

トゲトゲの植物が

 

まるでゴーストのように

 

ニョキニョキそこら中に手を伸ばしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菜の花のような黄色の花が綺麗なので

気を許して近寄ると

 

 

 

 

 

大袈裟ではなく、

 

血まみれになります💦

 

 

 

 

 

 

その昔、

 

ニュージーランドに入植した

ヨーロッパ人が

 

垣根を作るために

持ち込んだ植物らしいのですが

 

 

 

 

 

 

まさに金網より強い防御力で

 

誰をも寄せ付けません。

 

 

 

 

 

 

その自然の防護柵と格闘しながら、

 

何年もかけて植えた果実の木々を

発見していきます。

 

 

 

 

 

 

草に埋もれながらも

 

レモンの実がいくつもなっていました。

 

 

 

 

 

 

フィジョアという木に

実がついたのを見るのは

初めてで、

 

嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

膝丈ぐらいだったヘイゼルナッツが

 

私の身長などはるかに超える

大木になっています。

 

 

 

 

 

 

ビワの木も、

 

種から育った割には

大きくて

葉っぱがフサフサです。

 

 

 

 

 

 

 

その横の梅の木も元気で、

 

今はこちらは秋なので

葉っぱが色づいています。

 

 

 

 

 

 

名前のわからない

ミステリアスな果物。

 

なんだろう。

 

 

 

 

 

 

あと、ナシに洋梨、

アップル、ピーチなどもあるはずなのですが、

 

まだ見つけ出せていません。

 

 

 

 

 

 

草を刈り、

(刈るというより切り倒す😅)

 

怪獣の手から

ヒロインの木々たちを救い出した

ヒーロー気分で

 

半分になったジャングルを見ながら

思いました。

 

 

 

 

 

 

あれ?

どっちが怪獣だろう?

 

 

水分たっぷりに湿っていた

緑色のジャングルが

 

 

 

 

 

 

刈られたゴースの残骸が横たわる

茶色の乾いた大地に変わっています。

 

 

 

 

 

 

もしかすると

 

ゴースこそが、

 

人間という怪獣から

植物たちを守っていた

ヒーローだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

ニュージーランドでの新しい日々が

こうして始まりました。

 

 

 

🌱 🌱 🌱 🌱 🌱 🌱 🌱 🌱 🌱 🌱

 

 

 

今日はKISANA LINESの10歳のお誕生日♫

 

 

 

ここまで見守ってくださったみなさん、

 

支えてくれた仲間たち、

 

 

 

素晴らしい瞬間を

カメラを通して

シェアしてくれた

 

 

宇宙のすべてのものに

 

 

感謝を込めて。

 

 

 

 

 

文 :KISANA LINES 映像作家

 

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しあわせの呪文

 

 

 

むかしむかし、

まだ、地球さえも誕生していないころ

 

宇宙で生まれた微生物が

 

 

 

 

 

 

 

遥かなる旅路の末に

地球にたどり着き、

 

 

 

 

 

 

 

たくさんの進化(振動)を重ねて、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の地球上のすべてのものが

生まれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

生き物の種類が増えるごとに

 

地球はどんどん豊かに、

 

美しくなっていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは地球と一緒に

育ってきたのですね。

 

 

 

 

 

 

今、この瞬間にも

 

細胞が一つ一つ

固有の振動をしながら

 

音楽を奏でるかのように

 

生命体を創造しているんだと思うと

 

壮大な気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の体内だけでも

37兆もの細胞があって

 

それが全部

 

振動してるのです。

 

 

 

 

 

 

一つの細胞に2000はある

ミトコンドリアのことまで考えると

 

37兆×2000

 

天文学的な数の振動が

自分の体の中で

起こっていることになります。

 

 

 

 

 

さらに、私たちは

 

歌ったり、踊ったり、

 

 

 

 

 

 

笑ったり、

 

 

 

 

 

 

 

言葉を話したり、

 

 

 

 

 

 

自ら振動をおこします。

 

 

 

 

 

振動は、

目に見えたり、聞こえなくても、

 

 

常にそこにあります。

 

 

 

風も振動を起こしているし、

光や電波も振動の一種です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちの思考や意識も

実は振動なのではないかと

 

私は思っています。

 

 

 

 

ものすごく感動したとき、

 

心が動いて

振動するのだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

嬉しい時には

喜びの振動が身体を震わせます。

 

 

 

 

 

 

楽しい計画があって

ワクワクしている時は

特に振動がわかりやすいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

Happyな気持ちのときは

 

好きな音楽を奏でたり

 

 

 

 

 

 

自然に身体が躍動します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道端に落ちてるゴミを拾ったり、

人を助けて感謝されたりすると、

誰もが気持ちよく感じると思います。

 

 

それって自分の中に心地いい振動が

起こってるからだと思うのです。

 

 

 

 

 

考えていることや

感じていることの振動に

音階があって、

 

メロディのように聞こえたら

素敵だな~とよく思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しあわせの振動って、

自分の気持ち次第で

いつでも起こせるのだと信じています。

 

 

 

 

 

 

すごく辛いことが続いていて、

ふっと空を見上げた時、

 

ハート形の葉っぱを見つけたら、

人はすごくしあわせな気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

暗い森の中に、

 

一枚だけ輝いてる

小さな葉っぱを見つけた時も。

 

 

 

 

 

 

重病の人を一心に看病していて

その人が一瞬でも笑顔を見せてくれたら、

 

天にも上るほど嬉しくなります。

 

 

 

 

 

 

こうやって、

あたりを見渡してみると、

 

しあわせの種はいっぱい落ちています。

 

 

 

 

 

 

そんな種を見つけたら

大切に拾って、

 

「ああ、しあわせだな~」って

口に出して言ってみるのです。

 

 

しあわせの振動が身体中に響きます。

 

 

 

 

 

 

まわりの空気をも震わせます。

 

もし、共振するものがあれば

増幅されます。

 

 

 

 

 

 

振動は地球に止まらず、

宇宙にまで伝わり続けます。

 

 

宇宙から命の種が運ばれた時のように、

時空を超えてどこまでも。

 

 

 

 

 

 

だから、振動を起こすことは

責任重大です。

 

 

そのために

生きていると言っても

過言ではないほどに。

 

 

自分の内側の振動を

心地いいハーモニーに

しつづけること。

 

 

 

 

 

 

それこそが

「しあわせの呪文」だと思います。

 

 

 

「しあわせの呪文」で

自分自身にしあわせの魔法をかけましょう。

 

 

この魔法を

周囲に伝染させましょう。

 

 

 

 

 

 

 

今日は1月22日、

旧暦のお正月です。

 

 

しあわせの呪文を唱えるには

ぴったりの日。

 

 

どうか、みなさん、

今年もしあわせに暮らしましょう。

 

 

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:森のカメラマン・海のカメラマン

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長い眼

 

 

公園の横に住んでいます。

 

朝起きると、まずは、窓を開けて

公園を見渡します。

 

13階に住んでいるので、

木々の天辺を見下ろす感じです。

 

春は、若い葉っぱが

どんどん上に向かって伸びていくのを

毎朝 確認するのが楽しみです。

 

 

 

 

 

今日は 雨模様です。

 

 

 

 

 

空を見上げると、

どんよりとした雲が折り重なって

灰色のグラデーションになっています。

 

 

 

 

 

今日は、光合成ができないね~

と、いつものように木に話しかけました。

 

 

すると、雨水を垂らしながら

うなだれているように見えていた木が

 

まるで違をとなえるように

風でぶるんと揺れました。

 

 

「今日は、お水をもらえる日なのよ」

 

 

というささやき声が聞こえた気がしました。

 

 

 

 

 

「ああ、そうか」と

突然のように腑に落ちました。

 

 

 

「光」か「水」か

どちらかだけなんです。

 

 

 

木にとって「光」と「水」は

どちらも大切な栄養分ですが、

 

 

同時に 両方を

得ることはできないのです。

 

 

それを 当たり前のこととして

静かに立っている木を見ていると

 

 

 

 

 

 

改めて 人間の貪欲さに思い至ります。

 

 

人間の文明は、いつだって両方を

手に入れようとします。

 

 

 

 

 

 

必要なものは、今すぐ 全部

欲しいのです。

 

そのためには

自然をねじ曲げることさえも厭いません。

 

 

他の生き物からしたら

迷惑な厄介者ですよね。

 

 

 

 

 

 

 

気づかれている人も多いと思いますが

 

「欲」というのは

決して満たされることがありません。

 

 

一つの「欲」が満たされた瞬間に

もう何かが足りない気持ちになって、

 

次の「欲」が現れます。

 

 

 

 

 

 

「欲」は お金や物への欲にとどまらず

 

 

「支配欲」「名誉欲」「仕事欲」

「承認欲」「自己顕示欲」「達成欲」

「開発欲」「開拓欲」「創作欲」etc

 

 

現代に生きる人の営みのほとんどは

「欲」につながっています。

 

 

 

 

 

 

そして、人間が、欲望のままに

 

 

働けば働くほど

 

努力すればするほど

 

 

山が削られ、

 

川や海が汚れ、

 

空気が淀んでいきます。

 

 

 

 

 

 

「欲」で動いている限り、

 

人は、一生、

 

満たされることがありません。

 

 

 

 

 

 

この延々と繰り返される

「欲」のループから

 

いったい、どうやったら

人間は出ることができるのでしょうか。

 

 

どうしたら、人は満足できるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

あるがままを受け入れている木。

 

 

 

木はなんと満ち足りているのだろうと

 

つくづく思いました。

 

 

 

 

 

 

木から学ぶことは  とても多いです。

 

 

 

+++ +++ +++ +++ +++

 

 

 

ニュージーランドの

先住民マオリのエルダーから 学んだことを

伝える旅をしています。

 

 

 

 

 

代々、木を見守るという役割を持った家に生まれ、

木とともに暮らしてきたグレイスさん。

 

 

 

 

 

 

言葉にならないグレイスさんの想いに

心を重ねるようにして

 

毎回、話しています。

 

 

 

親から子、孫へと、

時代を超えて見続けることが

 

人の役目だという

 

マオリの教え。

 

 

 

 

起こっていることの

 

本質を捉え、

 

判断し、

 

解決策を実行するには、

 

 

 

一世代が見たことでは

短すぎるのです。

 

 

 

「長い眼」をもつこと。

 

 

 

 

 

 

とても、大切なことだと思っています。

 

 

 

+++ +++ +++ +++ +++

 

 

 

先月はご縁をいただいた徳島で、

 

短編映画「木を見守る人」の

上映+お話し会の6回目を開催しました。

 

 

人前で話すのは まだまだ慣れない中、

多くの人に支えてもらいながら

拙い歩みを続けています。

 

 

集まってくださった皆さまと

手伝ってくれた仲間たちに

 

この場を借りて

心から感謝させていただきます。

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、

大好きなグレイスさんの言葉を。

 

 

 

 

「人は、生まれた時から

 

 そのままで

 ありのままで

 

 他者を助けている」

 

 

 

人は、何かのためにとか、

生産性を上げなくては  とか、

 

日々、強迫観念や恐怖や欲望から

行動しています。

 

あるがまま(自然)に

感謝して

生きることができれば

 

 

人は欲から開放されて

 

 

本当の意味で満たされることが

できるのではないかと

 

 

グレイスさんの言葉が

私の道しるべになっています。

 

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

CATEGORY: お知らせ

木にくるまる

 

 

 

九州にある楠の原生林を歩きました。

 

 

 

 

楠は、日本各地の神社で見かけることが多いですが、

原生林としてはここが北限なのだそうです。

 

家の近くにも御神木としての楠が立っていて、

前を通りかかるたびに手を合わせるので

自分にとっては親しみのある大好きな木です。

 

 

 

 

 

そんな楠が、何百本も、しかも自然に立ち並んでいると聞いて

楽しみに山を登りました。

 

 

 

 

 

ちなみに、日本は国土の67%が森林で

世界の中でも緑の多い国ですが、

そのほとんどが植林されたりなんらかの形で人の手が入っていて、

原生林と呼べる手付かずの森は4%しか残されていません。

 

原初の頃から続く森に分け入ります。

 

 

 

 

 

様々な形や大きさの楠が乱立しています。

 

 

 

 

 

これまでに持っていた楠のイメージは

「どっしりと構えた優しいお母さん」でしたが、

ここに生えている楠たちは

自由に好きな方向に手を伸ばす、

なんだかおてんば娘たちのようです。

 

 

 

 

カメラを持って森に入ると、

いつもカメラが自然との橋渡しをしてくれているような

気がします。

 

 

 

 

ファインダーを覗くと、

普段、見せないような表情を森が見せてくれるのです。

 

 

キラキラと緑の葉の上を遊ぶ光のしずく。

 

 

 

 

 

時には雨でもないのに、

本当の水のしずくが木の上の方から落ちてくることもあります。

 

 

 

 

 

 

森を歩くと、自分のどこかが

どんどん研ぎ澄まされていくのがわかります。

 

 

 

 

 

 

目や耳や鼻などの器官が鋭敏になるというよりは、

 

 

皮膚のちょっと外側にある、

自分を纏ってるセンサーのようなものが

何かを捉えることに意識を向ける感覚です。

 

 

 

 

 

 

 

その感覚に導かれるように、

その方向にただレンズを向け続ける。

 

 

 

そして、レンズ越しに対話するように

木々の表情を撮りながら歩きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原生林の奥まったところで、

「孫の木」と書かれた巨大な楠が待っていてくれました。

 

 

 

 

 

 

 

「待ってくれていた」と書いたのは、

その木をみた瞬間、

なぜか「間に合ってよかった」と聞こえた気がしたからです。

 

 

「長い間、待っていてくれて ありがとう。」

 

 

太い幹のそばまで行って、そっと手を触れました。

 

 

 

 

 

 

いつも楠に感じる「優しさ」に加えて、

なんだか懐かしい感じもします。

 

 

ー私たちと同じように呼吸をして生きている大きな生き物が

そこに立って出迎えてくれているー

 

 

そんな、あたたかな気配です。

 

 

 

 

 

 

しばらく孫の木と再会を喜び合うような時間を過ごしたあと、

 

孫というからには、

おばあちゃんがどこかにいるはずだと探すと、

 

山の斜面を少しだけ降りたところに、

一際、大きな木が立っています。

 

 

 

 

 

 

節くれだった手で孫たちをあやしてるような枝々。

 

 

 

 

 

 

 

おばあちゃんの木のそばに立っていると、

なんだか抱っこされているような安心感に包まれます。

 

 

 

 

 

 

見上げると、木の上にはわさわさと葉っぱが茂っていて、

そこはまるでAnother Forest。

 

 

もう一つの森で暮らす鳥たちの声も聞こえます。

 

 

 

 

 

 

 

しばらく森の中にたたずんでいると、

私のセンサーがあることに気づかせてくれました。

 

 

 

 

 

 

足元に波打つ鼓動。

 

 

私が立つ地面の下に

木々の根っこがどこまでも広がっているのを

リアルに感じることができたのです。

 

 

 

 

 

 

手を広げてくれているようなおばあちゃんの木の枝と、

この張り巡らされた根っこで、

 

私はその時におばあちゃんの木に

実際に、抱っこされていたのだと思います。

 

 

 

 

 

 

斜面の上にある孫の木の根っこと、

おばあちゃんの木の根は、

きっと、地面の下で重なり合っていて、

 

養分と一緒に、

おばあちゃんの知恵も

孫たちに受け継がれているのでしょう。

 

 

 

 

 

 

見えている部分だけが木ではないのですよね。

 

 

 

木の枝の先々に芽ぶく葉っぱから、

太くて力強い幹、

そして、地面の下を這う根っこまで全部が木で、

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、地球上で、

木にくるまれて生きているのですね。

 

 

 

+++++++

 

 

 

 

この時に撮った映像を日記風の小編にまとめましたので、

良かったら見てください。

 

https://kisanalines.com/stories/series/happyplanet/happyplanet_03/

 

 

 

これからも、旅先で感じたことを

映像日記に綴っていきたいなと思っています。

 

 

これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:Ryohei Iwaki

CATEGORY: お知らせ

なぜ花は匂うか

 

 

3月になりました。

風の中にふんわりと春のいい匂いがします。

 

 

 

 

 

撮影で世界各地を旅をしましたが、思い出には必ず匂いがセットになっています。

 

 

 

ポルトガルの海辺の町の裏通りでは七輪のようなものでアジが焼かれていて、日本の田舎の昔懐かしい匂いが漂っていました。

 

 

 

 

 

 

燻された煙の香りに出会うと、

どんよりと雲が垂れ込める平原に、ピート(スコッチの原料であるモルツをいぶすために使われる植物が堆積した土)がいたるところに掘り返されているスコットランドの風景を思い出します。

 

 


 

 

 

ヒョウがインパラを襲い皮を裂くのを見た時に嗅いだ強烈な血の匂いは、

サバンナで見た降るような星空とセットになって身体の奥に染み付いていています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎さんの書かれた「なぜ花は匂うか」という本を読んでいます。

 

 

 


 

 

牧野富太郎さんは小学校を中退し、野原の植物に独学で学び、やがて東大で理学博士として植物分類学の研究に打ち込むまでになります。

 

「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます」と言われているように人生を植物の研究に捧げ、94年の生涯で収集した植物の標本は約40万枚、蔵書は4万5千冊もあり、1957年には文化勲章も受章されています。

 

 

 

 

 

 

一つの花に雄しべと雌しべがあるのに虫たちに他の花の花粉を運ばせるのは、雄しべと雌しべの発育のスピードが違うからで、これで近親での結びつきを避けているとか

 

菊の花はひとひらひとひらが一つの花でそれぞれに雄しべと雌しべがあるとか

 

葉脈に沿っていかに水が根元まで運ばれるとか

 

 

 

観察することによって蓄積されていった牧野さんの知恵に目を開かれる思いです。

 

 

 

 

 

 

さて、その「花はなぜ匂うのか」の本の中に、私がこのブログでも何度か書いている長年のテーマ「人間の本来のかたちとは」のヒントになる記述を見つけました。

 

 

「植物は人間が居なくても少しも構わずに生活するが、人間は植物がなくては生活のできぬことである。そうすると、植物と人間を比べると人間のほうが植物よりも弱虫であるといえよう。」

 

 

「人間は植物に感謝の真心を捧ぐ冪である。」

 

 

 

まさに、その通りだと思います。

 

 

そして、思いました。人間がいないと困る生き物はいるのかなと。

 

 

 

 

 

 

確かに、稲や芋などは人間が主食にしたおかげで繁栄した植物だと言えます。

ですが、収量は人間によってコントロールされ、あげくに交配や遺伝子組み換えまでされて人間のコントロール下におかれています。

 

 

人間以外の生き物で、他の生き物をこんな風にコントロールしているものっているでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

弱肉強食と言われる食物連鎖の関係性で言うと、ある意味、強者は弱者に支えられて存在しています。

 

ですから、強者は必要以上に弱者を犠牲にしません。

 

 

 

 

 

 

子孫を残すことが使命のすべての生き物にとって自分たちの生命線を絶つようなことをすれば、種が存続できなくなるのですからそんなバカな真似はしませんし、

 

 

考えてそうなっているのではなくそれぞれが本能のままで生きているだけでバランスが取れているのが自然の素晴らしさで、自然(地球)そのものが大きな生命体なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

地球に住む生き物はすべて、自然から生まれました。

 

自然にはそぐわない生き物は、いずれ消滅するでしょう。

 

 

恐竜がそうでした。

 

 

人間は恐竜と同じように滅びてしまうのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

自然に必要だと思ってもらえる生き方をしたいと思います。

 

 

人間がいることで、他の生き物に感謝してもらうように生きるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

自然にとって有効なもので、人間にしかできないこと。

 

 

 

それこそが、人間の本来(自然)のカタチなんだと思います。

 

 

 

「本当の人間」探し。

 

まだまだ道なかばですが、大切なヒントをもらった気がします。

 

 

 

 

 

 

 

「花は黙っています。それだのに花はなぜあんなに綺麗なのでしょう?

なぜあんなに快く匂っているのでしょう?

思い疲れた夕など

窓辺にかかる一輪の百合の花を

じっと抱きしめてやりたいような思いにかられても

百合の花は黙っています。

そしてちっとも変わらぬ清楚な姿でただじっと匂っているのです。」

 

 

牧野富太郎「花はなぜ匂うか」(1944年82歳)より

 

 

 

 

 

文:映像作家 桐子

写真:森のカメラマン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CATEGORY: お知らせ

ウミガメ

 

新しい年になりました。

みなさんはどんなお正月を過ごされたでしょうか。

私は新年にたくさん本を読もうと、テーブルの上に本を積み上げて、読書に勤しんでいます。

今、読んでいるのは、友人に頂いた「ウミガメは100キロ沖で恋をする」です。

 

 

 

とても興味深いです。

卵からかえった稚ガメは海の藻に揺られてしばらく漂流し、成長したら餌のある海で暮らし、産卵時期が近づくと恋をするために沖へと向かいます。

 

 

 

 

ウミガメの種類は全部で7種類。

そのうち、一番大きなオサガメは、タイトルにもあるように、ビーチから100キロ離れた沖で恋に落ちて卵を身ごもり、自分が生まれた浜に戻って卵を生むそうです。
パプアニューギニアのオサガメの例では、産卵後、カリフォルニア沖までの1万2千キロもの旅をし、それを2~3年ごとに繰り返すのだそうですが、何故、そんなにも移動するのか詳しいことはわかっていないのだそうです。

ウミガメの研究を45年続けてきた作者 菅沼弘行さんの「保護」という言葉は大嫌いだ!という言葉からスタートする真摯で正直なウミガメ論。

実際に世界中で保護活動が盛んなところほどウミガメが減少しているのだそうです。

 

 

もちろん、ウミガメが減少した原因は人間の欲で、そのことに対する憤りも書かれていますが、私が菅沼さんの書かれている内容に惹かれるのは、ウミガメの生態は未だ謎に包まれているにもかかわらず、短絡的な判断をして保護活動をしてしまう人間に対して警笛を鳴らされているところです。

 

 

 

 

保護のためにウミガメの卵を移植するところが多いですが、ウミガメのオス・メスは卵の孵化中の温度で決まるらしく(一定の温度より高いとメス、低いとオス)、卵を移動させることでそのバランスを壊してしまうことになるそうです。

 


また、卵の孵化はすでに母ガメのお腹の中で始まっていて、一旦それを止めて砂に産みつけられた後、また孵化が再開されるそうですが、その際の卵の向きが非常に重要で、移植する時に角度が変わると孵化しないのだそうです。

 

他にも、ウミガメの保護活動という名のもとに行われている卵の移植や稚ガメの放流などが、保護どころかウミガメをどれだけ減らすことにつながっているか、その事例を菅沼さんは細かく検証されています。

 

 

そして、ウミガメが減少している最大の要因は、産卵するための砂浜が地球上から減少していることです。

 


 

 

話が少しそれますが、昨年、ニュージーランドの先住民が主人公の「木を見守る人」という短編映画の上映と、映像で伝えきれなかったエピソードをお話しするイベントを沖縄と奄美大島で合計3回、開催しました。

 

 

 

 

前回も書いたのですが、その映画の主人公のグレイスさんは代々、先住民マオリの人々が大地の神様として敬うカウリの木を見守る家族に生まれ、生涯を通してカウリの木々が茂る森の傍に住み、木に寄り添うように人生を送って来られました。

 

 

 

 

撮影当時、すでに80歳を超えておられたグレイスさんが言いました。

守るというのは、手を出さす、ただ見守ることだと。

 

森を保護しようとする現代の動きに対して、グレイスさんは辛口でした。木を枯らす虫を殺すために薬剤を使う保護活動は却って森の循環を破壊する。

歳をとった木が倒れることで若い木が育つ。森は自らそうやって循環してきた。

病気も一つのプロセス。人には森を保護することができないどころか、森に守ってもらってる立場なんだよ。

 

 

静かに話すグレイスさんの言葉が私の中にずっと響いています。

 

 

 

人間の一生は木々よりずっとずっと短いのです。

たかだか数十年、観察したぐらいでは自然の全体像は見えません。

だからこそ、先住民は代々、その役割を次世代に送り継いでいくのです。

人の一生分だけでは、何も判断ができないのを知っているのです。

これこそが先住民の叡智です。

 

 

 

 

実は、ここからが本題で、その上映会のために訪れた奄美大島で、心にとまる事柄があり、動画を制作し発信しています。(ご興味がある方は、YouTubeのsave katokuチャンネルを検索してみてください。現在、episdoe.3まで公開しています)

 

 

 

 

シダやマングローブなど亜熱帯植物が鬱蒼と茂り、天然記念物に指定される生き物もたくさん生息している自然豊かな奄美大島は、最近、ユネスコの世界自然遺産に指定されました。

 

世界遺産に指定されたのは陸上部ですが、クジラたちが子育てにくる海も本当に美しく、サンゴ礁にたくさんの魚たちが舞うように泳いでいます。

 

 

 

 

こんなに素晴らしい海に囲まれた奄美大島ですが、

自然な浜が残されている海岸は稀少で、集落のある海岸のほとんどがコンクリートの防波堤で囲われてしまっているのが実情です。

 

 

そうです。ウミガメが産卵できない浜になってしまっているのです。

 

自分の生まれた浜で産卵しようと遥か沖合いから泳いで帰ってきたのに、その砂浜がなくなってしまっていたら、ウミガメは一体どこで産卵すればいいのでしょう。

 

 

取材では、ビーチの砂がなくなってしまうメカニズムを大学の先生に詳しく話していただきました。

 

海岸の砂浜は常に移動しています。

川から流れた砂が海岸線にたまり、その砂が波にさらわれ沖へと移動し、また戻ってくる。これを繰り返しながら、川と海が重なる場所に自然な砂浜が出来上がります。

 

 

 

 

その生きている砂浜に固いコンクリートの堤防を立ててしまうと、川からの砂も堰き止められ、コンクリート前の砂は波に流されていき、どんどん浜が痩せていきます。

 

 

 

 

砂が大きな波を受け止めるクッション材になっていたのに、その砂がなくなったことにより、大波が堤防に直接 当たり、堤防前の砂はさらにえぐりとられていきます。

 

 

 

 

このように、砂の重要性を世界中が再認識している中、奄美大島の今や最後の自然が残された海岸とも言える嘉徳ビーチで、護岸工事が始まろうとしています。

 

 

 

 

住民の方々の中には、祖先が残してくれた素晴らしい景観を壊したくないと護岸工事に反対する人もいますが、多くの住民は賛成をしました。

集落を守るためにはコンクリート護岸しか方法がないと説明を受けたためです。

 

遥か昔からこの地を大きな波から守ってきてくれたのはこの砂浜なのに、そのことの理解が得られないまま取材を重ねるうちに、賛成派と砂浜を守ろうとしている人々が衝突する場面に出くわしました。

 

砂浜を守ろうとしている人々は、この地に住む他の生き物を含む自然の素晴らしさを訴えます。

 

それに対して、住民の一人が投げ捨てるように言った言葉が胸に刺さりました。

 

 

「私たちは自然と戦ってきたんです。台風の夜は大波が怖くて眠れません。

自然は敵なんです。そんな憎い自然を守りたいなんて全く思いません。」

 

 

 

 

 

その時、思い至りました。

確かに人間は歴史上、ずっと自然に争って生きてきたのかもしれないと。

 

 

丸腰では他の動物に負けてしまう人間は、武器を生み出し自らを守りながら、やがては自然や動物を支配し、人間独自の文明を築き上げました。

今では人間同士がその武器で戦っています。

 

まさに今の人間の文明は、自然に抗うことがベースとなっているのです。

 

 

 

 

人間は、いつの間に、自分たちも自然の一部なのだということを忘れてしまったのでしょう。

 

ニュージーランド先住民のグレイスさんが言うように、私たちは守られている側なのだということをいつから信じようとしなくなってしまったのでしょう。

 

 

ライオンやペンギンは、お腹が空いたからといって、自然に抗い自分たちの生き方を変えようとしていますか?

 

 

 

 

 

 

アフリカの草食動物は移動する時は必ず一列に歩きます。

自分たちの食べ物である草を潰してしまわないようにしているのです。

 

 

地球上全てのものがあるがままにいることで調和のとれた循環をする。

その完全調和の仕組みのことを自然と呼ぶのです。

そこには、もちろん人間も含まれています。自分たちこそが自然なのだから、自然を殺すことは、自分を殺すことになるのがどうしてわからないのでしょう。

 

 

この人類の道が行きつく場所は一体どこでしょう?

 

 

幸せな未来が想像できますか?

 

 

 

 

 

 

全てのものは瞬時であったり時間をかけるものなど差はあっても、お互いの微生物が入れ替わり絶えず他者と循環しています。

物理的にも科学的にも、すべてのいのちは一体なのです。

この精妙な「いのち」というシステムの中に我々は生きています。

 

 

「いのち」の輪からはみ出して生きていくことなど、自然の一部である私たちにはできないのです。

 

 

 

 

 

 

よく、もう、過去には戻れないという人がいます。

そうでしょうか?

 

 

地球が生まれてから45億年も経つ中で、我々 ホモ・サピエンスが生まれたのは

たった20万年前のことです。

産業革命以降、自然を壊し始めたのがおよそ200年前。

45億年の中のたった200年です。

 

 

今、私たちが分岐点まで戻って本来の道を歩み直さないと、そう遠くない未来に自然の自浄作用が起こってしまうような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

新年早々、ネガティブな話になってしまいましたが、ポジティブに変えていける力を私たちは持っているのだということを信じています。

 

 

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さて、今年も各地で上映会を開催する予定です。

日程が決まりましたら、会員の皆さまにはメールでお知らせいたします。

 

 

そして、新年最初のニュースです。

三年がかりで制作したオーガニック花園のものがたり が完成しました。

タイトルは「オーガニックな花が咲かせる しあわせのお話」です。

 

 

 

 

 

本編は、舞台となった吉垣花園のイベントで今後、上映される予定ですが

ダイジェスト版をKISANA LINESの姉妹サイト「ひとつぶのものがたり 」の方に

アップいたしました。

 

 

 

代々続く花園の3代目が、ご家族との話し合いの末(ご両親、息子さん二人、娘さん一人、愛犬)、オーガニック農法に切り替えられ、紆余曲折がありながらも今は食卓に飾っても安心なお花を全国に届けられています。

 

*実は繊細なお花は傷みやすく、少しでも虫のあとがあれば花屋さんで売れないことから大量の農薬がかけられています。化学物質中毒で苦しむのは、美容師さんと花農家さんだとよく言われています。

 

 

取材中、吉垣家のご家族みなさんの笑顔が素晴らしくて、お花を撮るのを忘れて笑顔を撮るのに夢中になってしまったほどでした。

 

オーガニックなお花を育てることは、こんなにも素敵な笑顔を咲かせることなんだなと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

笑顔を未来に繋いでいきたいという吉垣家の思いを映像に紡いだ作品。

ぜひ、ご覧いただければと思います。http://onepiecestory.com

 

 

 

 

 

これからも、未来への眼差しと日々の暮らしの中から生まれる愛おしいものがたり を、目に見えない想いとともに映像で紡いでいけたらと思います。

 

 

文:KISANA LINES 映像作家 桐子

 

CATEGORY: お知らせ

木を見守る人

 

 

8月9日は世界先住民の国際day。

そんな日に、沖縄にて、KISANA LINES映像図書館の「上映会+旅のおはなし episdoe.1」を開催させていただきました。

 

 

 

 

 

 

会場は那覇にある大好きな「Book&Cafe hall ゆかるひ」さん。

オーナーのセンスが光るセレクトで集められた本に囲まれながら、地元オーガニック野菜をたっぷり使ったお食事やスイーツが味わえるカフェです。

 

 

 



実はここは本だけでなく、種もストックされていて、SEED libraryとして種を借りることができます。

 

 

 

 

借りた人は種を植え、育てて、次世代の種を採取して返すシステム。

沖縄の固定種を未来に届けたいというオーナーの想いが詰まった素敵な試みです。

 

 

 

 

 

このBook&cafeに隣接するhallも木の温かみがある心地のいいスペース。

大きなスクリーンに、木でできたデッキのようなステージがあって、とにかく、全てがナチュラルなホールです。

 

 


 

 

集まってくださったみなさまも、ゆかるひさんの活動に賛同される方たちはじめ、KISANA LINESの想いに共鳴してくださった方が多かったおかげで、

緊張でうまく話すことのできない私を最後まで優しく見守ってくださいました。

 

 

 

 

 

さて、今回、上映した作品のお話です。

 

Openingには、KISANA LINESの「声ものがたり」の「宇宙(そら)ごよみ episdoe.2 森のかみさまと海のかみさまが結ばれて」を上映しました。

 

 

 

 

これは、KISANA LINESの様々な作品に楽曲提供をしてくださっている新屋賀子さんが作詞作曲され、自らピアノを弾き歌っておられる「いのちの地球(ほし)」という曲に、KISANA LINESの森のカメラマンと海のカメラマンが撮った映像をコラージュして作った作品。

 

 

 

 

たくさんの災害に見舞われる地球のことを心配して、ともすれば不安になる私たちですが、地球はその真ん中にあたたかなハートがあって、そこは決して傷つくことはなく、生き生きした生命力に溢れていて、逆に私たちを五色の光で守ってくれているという、新屋さんが実際に見た夢を元に生まれた音楽。

 

その音楽に寄り添うように、森と海は別れていなくて、大きな地球という生命の巡りの中でひとつにつながっているのだというKISANA LINESのコンセプトを重ね合わせ、静謐な水をたたえた屋久島の森を縦糸に、海の生き物たちを横糸にタペストリーのように映像を紡ぎました。

 

ちなみに、新屋賀子さんは、この「いのちの地球(ほし)」という曲を1000人で合唱するというプロジェクトを進められています。1000人の美しい歌声が未来まで響きわたれば素敵ですね。

詳しくは「いのちの地球1000人合唱」で検索してください。

 

 

続いて、今回のイベントの主題である「木を見守る人」。

 


 

 

実は、この物語の主人公、ニュージーランド先住民マオリのグレイスさんは十数年前にテレビの旅番組の取材で撮影させて頂いたことがありました。

 

番組撮影時、グレイスさんのお話ひとつひとつの意味深さに、〝この言葉は次の世代にまで受け継いでいかなくてはいけない。いつか、もう一度、撮らせてもらおう〟と、心の中で誓いました。

 

 

そして、グレイスさんに再会する時がやってきました。

 

 

 

 

グレイスさんは、すでに、この時、80歳を超えておられていて、歩くのも辛そうでしたが、私の願いに応えるために、森の長老と呼ばれる木のところまで案内してくださいました。

 

 

 

 

グレイスさんは、森の木々を守る役目を代々担う家族に生まれ、

生まれた時からずっと森のそばに住み、木々と一緒に暮らして来ました。

 

 

 

 

全てのマオリの人には生まれた時から何かを守る役割があり、その役割のことを

「カイティアキタンガ」と言います。

 

 

私はグレイスさんに「グレイスさんのカイティアキタンガである木を守る」とは具体的に何をするのですか?と尋ねました。

 

 

 

すると、グレイスさんは言いました。

「ただ、そばにいて、見続けるのです」と。

 

 

 

 

 

 

 

手を出さず、ただ見続ける、それだけで守られるものがあることをグレイスさんは

時々、マオリ語を交えながら話してくださいました。

 

 

 

 

 

 

我々は、守るために過剰に保護したり、つい何か行動をしようとしてしまいますが、例えば、虫が増えて木が倒れても、それは大きな森の循環の中で起こっていること、

 

生も死も森の一部で、我々も森の一部として守られ生かされている立場なのだから、ただ大地の上に座り、見て感じていればいいとグレイスさんは言いました。

 

 

感じたことは大地を通して、森に伝わり、

 

必ず未来にまで伝わるからと。

 

 

 

 

 

 

人は長生きしても100年余りの命です。

樹齢数千年の木を代々見守ってきた家族だからこそ見えるものがあり、その言葉には真実があると思いました。

 

 

 

上映後、少しでも多くグレイスさんの言葉を伝えたくて、映像に入っていない言葉や私が知っている限りのマオリの文化について話しました。

 

 

 

 

 

 

皆さんに書いて頂いたアンケート用紙を読ませていただくと、私の拙い話でも、響いてくださった方が多かったことを知り、本当に嬉しく思いました。

 

 

 




 

 

 

 

集まってくださった方それぞれに感じてくださった想いが、タンポポの綿毛のように風に乗って旅を続け、いつか未来で花を咲かせればいいなと願います。

 

 

 

 

 

 

今日のブログは、ホールを貸してくださったゆかるひさん、イベントに集まってくださったみなさま、手伝ってくれた沖縄の仲間たちへのお礼の気持ちを込めて書きました。

 

 

 


 


 

 

 

 

 

マオリの人々は太平洋の島々を航海したアイランダーです。

沖縄の人々の伝統や習慣に近いものがあると感じます。

いつか、沖縄の物語も映像に紡がせてもらいたいなと思います。

 

episdoe.2、グレイスさんのお孫さんのお話も、完成したら、ぜひ、沖縄で上映させてください。

 

 

ありがとうございました。

 

 

文:KISANA LINES映像作家 桐子

写真:アニー梅本

CATEGORY: お知らせ

マタリキ

 

今日はニュージーランド先住民マオリの人々の新年「マタリキ」です。

 

マタリキとはプレアデス星団のこと。

日本では「昴」として知られていますが、プレアデス星団は数百もの恒星が

集まってできている星団で、肉眼でも6つは確認できます。

 

 

 

 

 

 

そのプレアデスが夜明け前、ニュージーランドの東北の空に上がってくる日を

マオリの人々は新年として家族が集まってお祝いをします。

 

南半球のニュージーランドでは6月から7月にかけては冬の寒さが深まる時期で、

マタリキを祝う1週間は、亡くなった人の魂を尊び、送り出すのだそうです。

少し、日本のお盆にも近い感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

日本では24節気など太陽の位置によって季節を図りますが、

マオリの人々は星に寄り添って生活しているのですね。

 

星を道標に航海し、1000年ほど前、ニュージーランドに

たどり着いたマオリの人々にとって、

夜空の星々はまさに命綱のような存在だったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

全くの私見ですが、私が旅した世界の中で、

 

空に一番近い場所だと感じたのがペルーの山岳地帯で、

 

 

 


 

 

宇宙に一番近いと思ったのが、ニュージーランドでした。

 

 

 

 

 

 

ニュージーランドの夜空を初めて見たときは、その星の数の多さに圧倒されました。

 

草むらに寝転がって星の瞬きに目を奪われていると、

自分が宇宙にいるのだとリアルに感じられます。

 

 

 

 

 

 

だから、私にとってニュージーランドは宇宙に一番近い場所なのです。

 

 

 

ニュージーランドの星が美しいのは、ニュージーランドの夜が暗いからです。

 

 

 

「星空保護区」という

国際ダークスカイ協会という機関が、暗く美しい夜空を保護・保存するために

2001年に制定した国際認定制度があります。

 

認定を受けるためには、屋外照明に関する厳格な基準をクリアすることや、

地域における光害に関する教育啓蒙活動が求められ、

現在では10万平方kmの夜空を保護してるそうです。

日本では、西表島や神津島、もちろん、ニュージーランドも保護区に入っています。

 

 

星空を保護区にするなんてロマンチックだなと思いましたが

逆にいうと、保護しなくてはなくなってしまう危険性があるからだと思うと

複雑な気もします。

 

 

日本はもうすぐ七夕。

 

少しでも広くて美しい星空を未来の子どもたちに残してあげられたらと思います。

 

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:森のカメラマン

 

 

CATEGORY: お知らせ

覚え書き

 

 

2021年3月11日。

 

 

「あれから10年、痛みを忘れずに、、、」

というキャッチコピーがよく目につくここ毎日でした。

 

家族を奪われ、家や住む場所を失い、変わることを余儀なくされた人にとって、

「忘れないで」という言葉はどのように感じるのでしょうか。

10年経ち、やっとの思いで悲しみからの一歩を踏み出せた人も多いでしょう。

そんな方達にとってみれば、「忘れないで」と言われるまでもなく、

今も、忘れたくても忘れられない大きな痛みなのだと思います。

(少しでも、その痛みに寄り添えればと心から願います。)

 

 

 

 

では、「忘れないで」いなくてはいけないのは誰なのか、

それは、痛んでいないほうの人たちだと思います。

 

そして、痛んでいない人に向けることばは「忘れないで」ではなく、

「まずは、知って欲しい」です。

 

 

 

 

まだ原子力発電所は、動いているものも、止まっているものも合わせて

全国に19箇所も立っています。

全てが海沿いに建てられ、冷却水は海に放出され続けています。

海の生き物たちは、否応なく、今この瞬間にもその水を飲み続けています。

今なお、危険な場所で仕事をしたり、暮らしている、人やほかの生き物も

たくさんいることを、まずは知って欲しいと思います。

 

 

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今日、自分の人生におけるこの10年のことを振り返り、

見つめ直す時間を持たれている人も多くおられると思います。

 

 

 

 

KISANA LINESを応援してくださってる方々の中には、都会から地方に移住し、環境に調和した新しい生き方を選んだ人も多いかと思います。

 

自分たちの食べ物を自給できるところまできてる人にとっては、努力の甲斐があった10年だったと思います。

 

 

 

 

この10年で地元のご年配の方たちと良い関係が築けた人もいらっしゃるでしょう。

 

より自分にあった職場や仕事を見つけ、愛する家族やまわりの人々に喜びを与える

生き方にシフトされた方もいるでしょう。

 

 

そんな人たちも、今一度、今日は自分自身の生き方について見つめ直してみませんか。

 

 

いつしか、最初の思いの「自然との調和」より、「快適」な方へと暮らしが流されていないでしょうか。

次々と生み出されるテクノロジーに翻弄され、周りの環境を見つめる時間が減ってはいないでしょうか。

 

 

 

 

都会に住む人にとっては、いまは違う苦境が人生に押し寄せているかもしれません。

毎日の暮らしに精一杯で、自分が自然の一部であることすら、忘れてしまっている人も多いと思います。

 

 

どんな環境にいる人にとっても、よく目をこらすと、今、社会にあるすべての問題は、実は全て同じ根っこからきていることに気付かされます。

 

 

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「根っこ」自体を引っこ抜くのは個人の力では、なかなか容易いことではないでしょう。

 

ただ、我々にできることがあります。

 

それは、とにかく「目を向ける」こと。

 

まわりの何かや、ましてや自分を責めるのではなく、

 

問題に「まなざし」を注ぎ続けること。「感じ続けること」。

 

そうしていると、必ず、「見えてくるもの」があります。

 

 

 

 

見えれば、見えたものを「表現する」ことが私たちにはできます。

それぞれの立ち位置で、それぞれが得意なことで、できることが

必ず見つかると思います。

 

 

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年末、どれだけ一生懸命に大掃除をしても、1週間もすれば、自然と埃は積もるし、窓ガラスは曇ります。

綺麗さを保とうと思うと、こまめにに掃除をし続ける必要があります。

 

修行をして「覚醒した」と思っているお坊さんでも、覚醒しているためには、修行し続けていないといけないといいます。

 

それと同じで、自分の心の中や生き方もいつも注意していないと、やっぱり汚れたり、散らかったり、曇ったりするのだと思います。

 

 

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今日、10年前の「志」を思い出した人も、思い出したからOKなのではなく、その「志」をどうか日々、磨き続けていただければと思います。

 

これは、自分への覚え書きとして、今日、ここに書いておこうと思います。

 

 

 

 

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これから、本格的な春が始まります。

色々なものが暖かさに緩み始めます。

希望が見える季節でもあります。

 

でも、そんな時だからこそ、今年は少し、心を引き締めて、

自分の感覚に敏感でいたいなと思っています。

 

 

 

 

 

10年前の今日、KISANA LINESの骨格ができました。

見守っていただいていることに感謝を込めて。

 

 

文:KISANA LINES 映像作家

写真:かれん、Chris

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