3度目の旅
春爛漫。
旅に出たくなる季節ですね。
長くテレビの旅番組の制作で世界中を旅してきました。
自分の仕事を人に説明する時に、
「一つの番組につき、一つの国を3度、旅する」
という言い方をよくします。
1度目は下見。約2週間から3週間かけて、撮影候補地を旅します。
現地のガイドの方と二人の場合や、一人の時もありますが、
3回の中で一番旅らしい旅です。
続いて、撮影本番。
旅人(俳優、アーティストなど)やカメラクルーを引き連れて、下見と同じコースを撮影する2度目の旅。
そして、帰って編集をするのですが、これが3度目の旅にあたります。
それぞれの旅は、同じコースでも得るものや印象が全く異なります。
1度目は何もかもが新鮮で、好奇心の目を光らせながら
インスパイアされるものとの出会いを楽しみます。
2回目は、自分のたどった道をスタッフと巡るガイド役のような立場。
同じものを見ても自分とはまた違う印象を持つ旅人やスタッフ目線を交えながらの旅になります。
そして、日本に戻って3度目の旅。
実は、この3度目の旅が自分にとっては最も味わい深い旅となります。
一人でスタジオにこもり、撮影した映像をモニターに映し出しながら編集するのですが、現場では気づかなかった旅人の小さな息づかいや感動する表情を通して見る旅先は、3度目のはずなのにとても新鮮に感じます。
同じ景色を見ていたはずのカメラマンが違う部分を切り取っていたり、自分の感じていたのとは違う森や空や海の色が映っていて、はっとすることもあります。
そして、取材させて頂いた現地の方の言葉も、実際に会って話していた時には気づかなかった深い思いが隠されていることも多く、まさに気づきの旅となります。
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さて、今はカナダの先住民の物語を制作しています。
内容は旅ではないですが、編集しているとやはり3度目の旅をしているような気持ちになります。
その中である先住民が話してくれた言葉に強く揺さぶられました。
「昔は、アートが暮らしそのものだった。。。」
世界中で起こった悲劇と違わず、カナダの先住民も西欧による植民地政策によって
文化や言葉を奪われました。
言葉を失った先住民は、自分たちが先住民であるという「アイディンティティ」さえも失ってしまいます。
そして、自信の喪失や心の傷がトラウマとなって親から子どもへと代々受け継がれ、今も自ら命を絶つ若者が絶えず、悲劇は続いています。
物語は、現代を生きる先住民たちが伝統的な「アート」を学ぶことで、再び自分自身を取り戻して行く様子を描いていますが、その中で「アートと生活」の関係について考えさせられます。
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私たちの現代社会において、日々の生活の中心になっているのは「仕事」です。
大半の大人はリタイアするまで、「仕事」を通じて社会と交わって生きていきます。
ここでいう「仕事」とは「経済」のための仕事です。
生活のために必要な「お金」を得ることを中心に社会全体が機能し、「仕事」が自分自身のアイディンティティになっている人も多いのではないかと思います。
先住民はこのような「経済社会」になる前の人間の生き方をまだ保有しています。
かつて彼らは衣食住、すべてを自分たち自身でまかなえたので、「お金」は必要ではありませんでした。
ですから、お金を得るために働くことも、もちろんありませんでした。
そんな先住民の生活の中心にあったのは「アート」です。
先住民全員が男性も女性も何かを創るアーティストとして生きていました。
女性たちは衣類や敷物などを織ったり、毛皮を縫いあわせて靴を作りました。
石でアクセサリーを作る人もいました。
男性は木を使って家、船、生活に必要な箱や皿などを作りました。
それらは、各人、家族によってそれぞれ違うモチーフや装飾がほどこされました。
自分たち自身の独自性がこめられたのです。
つまり、「アート」こそが彼らの「アインディンティティ」だったのです。
そして「アート」は生活に密着しながら、次世代へと受け継がれ「伝統芸術」として昇華されていきました。
彼らのアートにはたくさんの生き物が描かれています。
家族のクラン(ルーツ)を現すもので、スピリッツや守り神のような存在です。
お祭りには、それぞれのクランを象ったマスクやマントを装って踊りました。
彼らは書物を残すかわりに、物語や歴史を柱に彫刻し、トーテムポールとして森の中や海岸など神聖な場所に建てました。
すべてのアートは自然にあるものだけで作られ、やがては自然に還っていくものだとされました。
先住民にとって、「アート」は、自然への「祈り」でもあったのだと思います。
祈るように日々の中で創作され、想いが宿ったアート作品に囲まれた生活。
なんて贅沢なのでしょう。
それが何万年にもわたって綿々と続けられてきたのです。
その彼らの生活を壊したのが、現代の合理主義です。
アートは大量につくられる工業製品にとってかわられました。
アートと暮らしが切り離されてしまったのです。
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われわれの現代社会では、教育も社会のあり方も、
全てが「目的」と「結果」主義です。
「何のために」「何をするか」を常に問われ(自分自身に問い)それに向かって一生懸命、努力をする人生。
何かをなしとげること、お金を稼ぐこと、生産性のあることが正しいとされる世界。「未来」のために「今」をがまんする生活。
「アート」でさえ、商業目的に転じていきました。
もし、人が時代とともに進化しているとしたならば、お金を稼ぐための時間でほとんどが終わってしまうような人生をなぜ今も続けているのでしょう。
なぜ、生産すればするほど豊かな生活から遠ざかり、地球が汚れていくような進化を人は選んだのでしょう。
競争するかわりに、生きる喜びを味わうことに多くの時間を費やせるような道を歩めば、私たちが潜在的に持っているはずのたくさんの能力をもっともっと開花することもできるのではないかと思います。
それこそが、人としての素敵な進化ですよね。
今、一人一人がアーティストに戻る時代が来ていると思います。
モノを得るためのツール「お金」を稼ぐ生活から、ただ純粋な喜びに突き動かされて生きる人生に少しづつシフトしていく。
「喜び」から生み出された「アート」は多くの人の心を「感動」で満たします。
こうして「感動」することで生まれるエネルギーが世界中に広がり続けると、
地球はなんて美しい星になることでしょう。。。
想像するだけでワクワクします。
「地球を感動によるエネルギーで満たすこと」が、
人としての本来の「営み」なのではないかと最近、よく感じます。
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今年の5月5日、KISANA LINESは5歳になります。
サイトをもう少し見やすくしたり、物語の感想を会員のみなさまに書いていただく
スペースもできます。
さらにKISANA LINESの物語を種から育てる苗床のような姉妹サイトも準備中です。
そして、ただいま制作中のカナダの先住民の物語も完成間近です。
感動を分かち合える物語、是非、楽しみにお待ちください。
文:映像作家 Kisana
写真:プロジェクトマネージャー Kayo、デジタル映像作家 Ryo
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