Road of the Ring / 循環の道
ニュージーランドに40日ほど滞在していました。
ニュージーランドは「ロード オブ ザ リング」や「ホビット」などでも有名な映画
製作が盛んな国。
各地で毎年、幾つものフィルムフェスティバルが行われます。
滞在していた小さな町でも、ショートフィルムの最優秀賞を選ぶフェスティバルが行われました。
映画館の前にはレッドカーペットが敷かれ、参加者全員にシャンパンが振るまわれ まるでアカデミー賞なみの華やぎです。
プロの作品が並ぶ中、今回、最優秀に選ばれたのは20歳と18歳の学生カップル。
来年から映画学校に通うオスカーが監督をつとめ、高校を卒業したばかりのスカイラが脚本を担当しました。
実はオスカーは友人夫妻の一人息子でもあり応援していたので、今回の受賞は自分のことのように嬉しく思いました。
さて、その作品の内容ですが、意味深いテーマが3分のショートストリーにシンプルにまとめられていて、
とても感動したのでシェアしたいと思います。
16歳の少年と10歳の女の子が一緒に道路を歩いています。
すると、道ばたに女性が倒れていて、みんなが棒を持って寄ってたかってその女性をたたいています。道を通る人も誰も止めようとはしません。
それを見た女の子は助けてあげよう!と少年を誘います。少年は無視します。
何度頼んでも聞いてくれない少年と、殴られ続けている女性を交互に見ながら、とうとう女の子は泣き出しました。
するとその少年はその女の子に向かって叫びました。「なんで、こんなことぐらいで泣くわけ1?」「たかがポッサムじゃないか!」
すると、その倒れていた女性がオーバーラップでポッサムへと姿を変えます。
ポッサムはカンガルーのようにおなかに袋を持つオーストラリア固有の有袋動物。
それが、ニュージーランドに持ち込まれて以来、大繁殖をし、鳥の卵や雛を襲い、
森の植物を食べ尽くし、最近では家の庭まで入って来て果物の木や畑を荒らすので、
ニュージーランド人は捕獲して毛皮にしたり、道路などで見かけるとひき殺す(!)こともいといません。
さて、物語は続きます。
再び歩き始めた少年と女の子の前に、道に倒れて死んでるおじいさんが現れます。
女の子は再び泣き出して、どこかにお墓を作って埋めてあげましょう!と少年に言います。少年はまたもや機嫌悪そうに女の子を突き放します。
「なんでこいつのお墓をつくったりしなきゃいけないんだよ」
「たかがウエカじゃないか!」
すると、おじいさんはウエカに姿を変えます。
ウエカとはニュージーランドに固有の飛べない鳥。
ニュージーランドの鳥の中では珍しく雑食(肉も食べる)です。
絶滅を危惧されていましたが、国をあげての保護により最近では数が増えました。
畑の野菜のみならず、人の家の台所のものまで食べます。
さすがに、鳥を愛するニュージーランド人はウエカは殺しはしませんが、時々、車にひかれたウエカを道路で見かけることはあります。
そして、最後に、歩いている二人の前で人が車にはねられます。
今度は、少年の方がパニックになり、早く救急車を呼ばなくちゃと!と大慌て。
その様子を冷ややかに見ていた女の子が 少年に向かって言います。
「何を慌てているの?たかが人間じゃない。。。」
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もともと植物と鳥だけしかいなかったニュージーランド。
天敵がいないことから、ニュージーランドの木々はゆっくり育ち、夜行性で飛ばないキィウィに代表されるように鳥たちも独自の進化をとげました。
そこに人間によって持ち込まれたネズミやポッサム、ウサギなどの小動物や、建材のために植林された松などの植物。
外来の動植物は、それまで平和にゆっくりと営まれてきた森の生き物の生態系を一気に破壊し、みるみるうちにニュージーランド中に広がりました。
絶滅に瀕するニュージーランドの固有の鳥や植物たち。
すべての原因を作った人間は、問題解決のために様々な策をうち始めました。
その中にネズミやポッサムのみを殺傷する(と言われる)1080という薬剤があり、
ニュージーランドではヘリコプターで定期的に国立公園などにまかれています。
1080をめぐってニュージーランドの住民たちは長く争ってきました。
一方は、何もしなければ森が丸裸にされ、ニュージーランドにしかいない固有の鳥や植物が絶滅してしまう。1080をまくのは仕方のないことだ。
もう一方は、1080は川の水を汚し、魚や家畜やペットなど他の生き物にも害を与え、自分たちの生活さえおびやかしかねない。何か他の方法で数を減らそう。
双方がナチュラリストを自称する人々。
どちらが正解と一言では言いがたい難問です。
そんな大人たちの論争に一石を投じた、オスカーとスカイラのピュアな感性。
二人の映画は、多くの人たちの心に、まるで水面に広がる波紋のように ある問いかけをなげかけたのです。
「人は、他の生き物よりそんなに価値がある生き物なの?」
増えたから薬剤で殺す。いや、他の方法で数を減らそう。
どちら側にも、人間が他の生き物の数をコントロールしてもいいというエゴが
見えます。
今回のニュージーランド滞在の一番の目的は、前のブログにも書いた先住民マオリのエルダー、グレイスさんに会うためでした。
「タネマフタ(森の神様)」とマオリの人々が呼ぶ樹齢3千年とも言われるカウリの木をお世話するのが、グレイスさんの家族代々に伝わるお役目。
お世話とは「見守ること」「ただ見続けることです」と話したグレイスさんの言葉が忘れられずに、グレイスさんの物語を映像に撮らせていただけないかお願いに行ったのです。
グレイスさんは今回も大切なことばを静かに話してくれました。
「ただ、ただ、見続けて、感じるのです。
感じたことは、大地を通して未来に受け継がれていきます。」
人は「問題」があれば、それを「解決」するために、常に何か「行動」をおこしてきました。
小さい頃から、ゴールを決められそれに向かって努力するように教えられ、良い学校に入るため、良い会社に入るため、仕事では一つのプロジェクトに取り組み、それが完成したらまた次にとりかかる。
何か新しいものを生み出すことにとりつかれ、
成果をあげることが美徳とされる社会。
そのために、森も海も、回りにあるものすべてを利用し続ける人間。
人が何かを作れば作るほど、目的のために努力すればするほど、
海は汚れ、森は壊されていきました。
他の種をコントロールしようとすればするほど、
生態系は乱れ、地球環境はバランスを失いました。
生命のために一番たいせつな、綺麗な空気や水も、もうあまり残されてはいません。
人はいったい何をしているのでしょう。
何のために、生きているのでしょう。
お金や物や権力を得るために自分の人生のほとんどの時間を費やし、
やがて疲れきって死んでいく。
そんな風に生きるために、人は生まれて来るのでしょうか?
人だからこそできること、自然界における生き物としての人の役割が
もっと他にあるのではないでしょうか?
行動を起こす前に
まずは、感じること。
手を出す代わりに、
優しく見守ること。
コントロールするのではなく、
寄り添うこと。
喜びを他のものたちと分かち合うこと。
感動を自然界に循環させていくこと。
そう、自然は搾取するものではなく、循環しあうものです。
今、ここで、勇気を出して立ち止まり、何かをするのではなく、
やめる選択をしてみてはどうでしょう。
新しいものを作ることをやめ、今あるものを大切にする。
饒舌にかわって、耳を澄ます。
奪うのではなく、シェアする。
勝負にこだわらず、助け合う。
すべてのものはただ存在するだけで、完全に調和が保たれていることに気づく。
こうして、普段の生活の中で「能動」から「受動」に少しづつシフトしていけば、
人間は自然の「循環の道」にもう一度戻れると信じます。
マオリのエルダーが伝えたいと切望しているこの願いを未来に届けるために、
来年より撮影をスタートさせます。
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新作のリリースが大変おくれています。
来年はKISANA LINESがスタートしてから5年という節目の年。
これを機会に、カナダの極北を舞台に5年の歳月をかけて製作してきた長編を
お届けするつもりです。
楽しみにお待ち頂けたら幸いです。
2018年が美しい調和の年となりますように。
KISANA LINES スタッフ一同
文:KISANA 映像作家
写真:森のカメラマン